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2007-01-14

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 さほど広くはない京都の街でも少し北の方まで行けば、洛中(京都の中心部)とは気温も雨や雪の量も違います。東山三十六峰のひとつである瓜生山(うりゅうざん)の麓辺りも、今の季節は肌を刺すような寒さを感じる日が多いところです。

 JR京都駅からバスで1時間近くもかかるこの辺り、決して行きやすい場所ではないのですが、宮本武蔵と吉岡一門との決闘の場である一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)から北へと道をたどれば、詩仙堂(しせんどう)、圓光寺(えんこうじ)、鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)、曼殊院(まんしゅいん)修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)、赤山禅院(せきざんぜんいん)などの名所が点在しており、特に紅葉の季節には多くの人が訪れます。さすがに冬場は人が減るものの、先日のひどく冷え込んだ日ですら雪を目当てに散策を楽しむ人とたびたび行き交いました。

 この北へ向かうルートは私も好きで何度か歩いているのですが、詩仙堂から南へ下がったところにある金福寺(こんぷくじ)は、数年前までその存在すら知りませんでした。晩秋の休日にこの辺りを訪れ、あまりの人の多さに辟易したことがあって、詩仙堂から先へ進むのを諦めて引き返そうとした時に、道端にあった金福寺の小さな案内板を見つけたのです。松尾芭蕉や与謝蕪村と所縁のあるお寺がこんなところにあったのかと興味をそそられ、中途半端に空いてしまった時間を埋めるために気まぐれで訪れたのが金福寺との出会いでした。

 千年以上の歴史を持つ金福寺は、その長い年月の間には忘れ去られ荒廃した時期もあったそうです。それを江戸中期に鉄舟和尚という方が再興し、その鉄舟和尚が大切にされていた芭蕉庵を、さらに70年ほど後に与謝蕪村が荒廃から救っています。芭蕉庵は、鉄舟和尚が親交のあった松尾芭蕉の名をつけた庵で、松尾芭蕉を大変尊敬していた与謝蕪村が時を経てその再興に尽力したのです。こうして守られてきた金福寺は、枯山水の庭と瓜生山を借景とした芭蕉庵が独特の趣を見せる、静かでとても落ち着けるお寺でした。



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 詩仙堂近くで見つけた金福寺の案内板に松尾芭蕉や与謝蕪村の名とともに書かれていたのが、晩年をここで過ごした村山たか女(むらやまたかじょ)の名前でした。たか女は、幕末の大老・井伊直弼恋人だった人で、舟橋聖一さんの歴史小説花の生涯」にも登場します。この「花の生涯」は、当時は大変な人気だったらしく、1963(昭和38)年のNHK大河ドラマ第1作にもなっていて、金福寺でもたか女の遺品とともに、この小説ドラマが大きく紹介されていました。そして、金福寺を訪れた私の心に何よりも強く残ったのが、このたか女という女性でした。

 井伊直弼という人は、なかなか安定した評価が得られない人のようです。明治維新の頃までは、朝廷の勅許なく日米修好通商条約を締結し、安政の大獄引き起こし、その結果桜田門外の変暗殺された暴君という扱いだったのが、明治に入って一時期その政策が高く評価されています。ところが明治末期には、反直弼の風潮が復活してしまっているのです。

 幾人もの男性と関係を持ち、さらには直弼のためにスパイとして働いたたか女もまた、長い間奸婦(かんぷ)と呼ばれ蔑まれてきました。それが後には、直弼とたか女の悲恋という形でクローズアップされ、たか女は直弼への一途な愛に生きた女として描かれることも多くなります。

 人は様々な顔を持ち、またそれを見る第三者もいろいろな受け止め方をするわけですから、人物像が定まらないのも無理はないのですが、書き残されているものがあまり多くないたか女については、なおさら不明な点も説が分かれるところもあって、私はそのどれもに語り尽されていない物足りなさを感じていました。同じ女性としてそれらを見た時に、どうしても腑に落ちない部分がいくつもあったのです。

 女性だからというのはもちろんあるのでしょうが、たか女について書かれているものが少ないのは、すなわち彼女に表舞台に出てきてもらっては都合の悪い人間が多くいたということなのではないでしょうか。たか女は、書き残されているものよりも遥かに多くの地獄を見てきたのではないかと、私には思えてなりませんでした。その生い立ちからして世に憚られるもので、更にはたか女の頭の回転の速さと美貌とが、策略の網の中で何度ももがく彼女運命を決定づけることになったのでしょう。



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 たか女の生まれは近江国滋賀県)多賀町、多賀大社の社僧・般若院慈尊(はんにゃいんじそん)と多賀の色町の芸者との間に生まれたという説や、多賀大社の尊勝院主・尊賀少僧都と般若院の娘との間に生まれたという説などがあります。いずれにしても公言できる出自ではなく、まだ幼いうちに芸事を身につけられる場所へと移されたようで、彼女については歌舞音曲に優れていたという記録が残されています。

 成長するにつれ美しさに磨きがかかるたか女は、18歳の時に井伊直弼の兄で後の第12代彦根藩主・井伊直亮(いいなおあき)に仕えることになります。恐らく単なる侍女として仕えただけではないのでしょう、美貌と噂のたか女が、幾晩かの慰みのために召されたのは容易に想像できます。たか女が早々に直亮の元を辞して、近江国に留まることなく祇園へ出て芸妓となったことも、それを裏付けているように思えます。

 祇園へ出たたか女を待っていたのは、金閣寺長老・永学からの執拗な求愛でした。しかし、たか女が永学の子・常太郎(後の帯刀)を生むと、世間体を憚った永学はたか女母子を金閣寺の寺侍・多田源左衛門へと託してしまいます。子を産むことにこだわったたか女はあっさりと永学に捨てられ、見ず知らずの多田源左衛門の妻にさせられたというところでしょう。当然この結婚は長くは続かず、たか女は常太郎を連れて近江国へ戻ることになります。

 その頃の井伊直弼は、自ら「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけた住まいで鬱々とした日々を過ごしていました。十四男では藩主になどなれず、その上養子にも出そびれて、わずか三百俵の捨扶持を与えられただけの身の上は、嘆きの対象にはなることはあっても希望の光など見えもしなかったのでしょう。

 その埋木舎で、直弼はたか女や後の腹心・長野主膳出会います。不遇の時を慰めてくれた年上のたか女に直弼は溺れていったのでしょうが、その直弼の目を覚まさせるようなことが起こります。兄・直亮の嫡男の死と直亮の死が相次いだため、36歳の直弼が第13代彦根藩主の座に就くことになったのです。

 こうなると、直弼にとってたか女は非常に邪魔存在です。側近として召し抱えた長野主膳に宛てた手紙の中でも、直弼は「かの婦人はどうしているか。心得の良くない彼女のことが世間に知れたらと後悔するばかり。自分の汚名になってしまう」などと露骨に書いています。

 そんなたか女が抹殺されることなく生き延びたのは、長野主膳の力があったからなのでしょう。その頃のたか女と常太郎母子は、長野主膳保護の下、長野主膳から国学などを学びながら細々と暮らしていたようです。そんなたか女に長野主膳が惹かれ、深い仲になったのも無理からぬことなのかもしれません。

 第13代彦根藩主となったその12年後、直弼は大老職に就きます。将軍継嗣問題や日米修好通商条約問題で揺れる日本の中で、直弼は公武合体論を貫き尊皇攘夷派への弾圧を強めます。安政の大獄です。

 この頃のたか女は京にあり、スパイ活動を開始しています。馴染みのある京で志士や公家などの情報を収集して長野主膳経由で直弼へ知らせたり、長野主膳と佐幕派の九条家家臣・島田左近との連絡係などを担っているのです。

 これが一般論のとおり直弼への一途な愛のためだったというのには、私は少々疑問を持ってしまいます。長野主膳を想う気持ちから、というのも少し弱いように思えます。成長して常太郎から帯刀と名を変えた我が子のためだったというのが、一番納得できるかもしれません。我が子の安泰と出世という餌を目の前にぶら下げられて、50歳を超えたたか女が危険なスパイ活動に身を投じた、そういう可能性も大いにあったのではないでしょうか。母であれば我が身に代えてでも子を守ろうとするのが、女の本能なのでしょう。



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 安政の大獄尊皇攘夷派に大弾圧を加えた直弼は、大老就任からわずか2年後、桜田門外の変水戸浪士らに暗殺されます。尊皇攘夷派の報復安政の大獄に関わった多くの人に及んで、島田左近は惨殺、長野主膳彦根藩の藩命により斬首されてしまいました。

 洛西の隠れ家に身を潜めていたたか女も、30人もの長州土佐両藩の武士の急襲に遭い、ついには捕らえられてしまいます。辛うじて命だけは助けられたものの、三条大橋の橋柱に縛りつけられ、「この女、長野主膳妾にして、主膳奸計を助けたる者。女子の身なれば死罪一等を減ず」と罪状を記した立て札を背負って、凍りつくような寒さの中、三日三晩の生き晒しの刑に処せられました。たか女が何とか逃した息子・帯刀も、尊皇攘夷派におびき出されて斬首、その首は刑場の木に吊るされたといいます。

 たった一人生き残ったたか女は、刑を解かれたのち金福寺に入り、1876(明治9)年に67歳で亡くなるまでの14年間を、尼僧としてひっそりとここで過ごしました。

 先日、何年かぶりに金福寺を訪れ、たか女のわずかばかりの遺品を前にして、ここで晩年を過ごしたたか女の心の中にあったものは一体何だったのだろうと私は考えました。自分よりも先に旅立ってしまった我が子への思いは、きっと何よりも大きかったでしょう。絶望と空虚、そして深い悲しみの混じりあった感情が、彼女の心を大きく占めていたのではないかと思います。

 自分の体を通り過ぎ、自分の運命を次々と変えていった多くの男たちへの思いも、虚しさとともに心に刻みつけられていたことでしょう。彼らの策略や自己防衛のために翻弄され続けたたか女の人生の中には、自ら命を絶ってしまいたくなるほど辛いことも数多くあったはずです。

 しかし、何もかも失くし、それでも生き続けなければならなかったたか女が終焉の地で表したのは、生かされることへの感謝の気持ちでした。生まれ年の干支である巳に守られてここまできたと彼女は信じ、巳にまつわる品を遺しているのです。その時の彼女には、すでに怒りの気持ちも恨みの気持ちもなかったのかもしれません。彼女が心静かに最後の時を迎えたことを、私はただただ祈りたい気持ちになりました。



金福寺 (こんぷくじ)

・所在地 : 京都市左京区一乗寺才形町20

・TEL : 075-791-1666

関連サイト

京都市観光文化情報システムhttp://raku.city.kyoto.jp/sight.phtml

  金福寺のページは、こちらです。

参考図書

花の生涯 (舟橋 聖一)

・奸婦(かんぷ)にあらず (諸田 玲子)

・女人絵巻 (澤田 ふじ子)

・京に燃えたおんな (京都新聞出版センター

明治維新人名辞典 (日本歴史学会


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「ブログ・バトル・ロワイヤル」参加エントリ (愚民の唄)

ひとみんひとみん2009/12/17 16:14奸婦にあらず を読んだあと、金福寺を検索、
このブログにたどりつきました。
村山たかのことは、まったくそれまで知らず、
竜馬伝京都幕末地図という本に、いきざらしのあの
絵があり、驚きました。
驚きながらも調べることもなかったのに、
なにかに引き寄せられるように「奸婦のあらず」の単行本を手にして、あっあの絵の人の話や・・・と。。。
ぜひ、金福寺を訪れてみたいと思っています。