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2007-08-25なつやすみのにっき3

[][]「決して暴力はふるわない。大切なものがあるから。」に潜むもの 「決して暴力はふるわない。大切なものがあるから。」に潜むもの - bluescatの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「決して暴力はふるわない。大切なものがあるから。」に潜むもの - bluescatの日記 「決して暴力はふるわない。大切なものがあるから。」に潜むもの - bluescatの日記 のブックマークコメント


 夏休み、四日目、五日目。それぞれ、遠出して山に登ったり船に乗ったり、近場をウロウロしてシャガールの絵を鑑賞して涼んだり……。この辺りの話を書こうと思っていたのだけど。また別の機会にでも。

 翌日は、通常通り出社して仕事をした。せっかく取った休みを返上して、フツウに出社して、フツウに仕事して、フツウに帰宅するというのも、なかなか痺れるものだ。いつもと同じようにつかれた身体をひきずるようにして表参道をとぼとぼ下って、原宿駅に向かって。

 人気のない深夜の原宿駅改札を抜け、ホームへ降り立つ階段を下りてすぐのところに貼り付けてあるポスターが、目に留まった。ちょっと前から、その存在に気がついていたのだけど。なんとなく違和感を覚えながらも、その理由が分からず、というか、深く考えもせずにいて、その日もいつもと同じように通り過ぎようとしていた。が、ふっ、とした拍子にそのキャッチコピーの意味に気がついて、ガクゼンとした。

 それは、こんなポスターである。


f:id:bluescat:20070825230023j:image

[鉄道事業者による共同PR暴力行為防止ポスター]


 定期入れのようなものに、赤ちゃんの写真が入れてあって、その写真を見つめているのであろうという構図。

 キャッチコピーは、こうだ。


「決して暴力はふるわない。大切なものがあるから。」

「駅や車内での暴力行為は犯罪です」


 このメッセージに恐怖を抱きはしないだろうか? 私は、このように解釈した。


 駅構内で暴力をふるう

  ↓

 傷害罪で逮捕される

  ↓

 犯罪者になる

  ↓

 大切な家族が悲しむ

  ↓

 だから暴力はやめましょう


 自分かわいさ、自分の身内かわいさにつけ込もうというメッセージであって、自分が傷つけた「被害者」に対しては全く着目されていないのではないか。

 この記事を書くに当たって、ポスター画像を探していた際に、東京都庁のサイトに行き着いたのだが、そのサイト内での記載では、図柄イメージをこう説明している。


 可愛らしい乳児の写真を用いることで、自分と被害者の大切な家族や仲間のためにも、決して暴力を振るってはいけないことを伝えています。

http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2007/07/20h7b100.htm


 一応、被害者の「家族」も考慮されてはいるようであるが、相手が受ける「痛み」にはいっさい触れていない。この想像力の足りなさ。そして、『駅や社内での暴力行為は犯罪』だというコピーから窺がえる、喧嘩なら余所でやってくれとでもいうような、責任逃れ的姿勢。なんなのだろう? この薄気味の悪さ。

 逮捕されなければ、罪を問われなければ、いくら暴力をふるってもいいのか。「大切なものがあるから」というが、じゃあ、「大切なもの」がなけりゃあ暴力をふるっていいのか。という疑問に行く着きはしないか。

 例えば、自分には大切な家族などいない、と思っている人。例えば、自分には地位も名誉もない、と思っている人。ここでは、「思っている」というのを強調したい。自分でそう思っている人というのを。そんな人たちにとって、このメッセージが意味するものはなんだろう?


 どうせ、おれにゃあ、妻もかわいい子どももいない。どうせ、おいらには失うものなんかなにもありゃしねえ。


 心の中でそう呟き、暴力をふるう機会を虎視眈々と伺う「誰か」。電車の中だから、駅構内だからと振り上げそうになって収めた拳の行き先を求めて彷徨う「誰か」。暗い夜道を歩きながら、もし、そんな「誰か」が、自分を待ち受けていたら。と考えると、こわい。

 家に帰れば帰ったで、

「今日、本当は殴り倒したい奴がいたんだけど、お前の為に、殴るのはやめておいたよ」

 ひっそりと心の中で呟き、不気味に微笑む父や兄がいたら。なんて想像すると、どうも。

 憤りというよりも、気味の悪さを感じる。嫌悪感といってもいいかもしれない。相手が受ける「痛み」への想像力の欠如に。暴力行為によって傷つくのは、自分の名誉と自分の家族(相手の家族)だけではないだろう。大切なものを失わない為に暴力をふるわない、というのではなく、もっと違う訴え方はできないのだろうか。こんな訴え方をしなくてはならないなんて。こんなポスターが、何食わぬ顔をして、あらゆる駅に貼り付けられているなんて。そんな社会の在り方に疑問をいだく、夏休みの終わりであった。




 公衆の面前での暴力が犯罪なのではない、暴力をふるって見咎められることが犯罪なのではない、暴力、そのものが罪なのだ。











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2007-08-21なつやすみのにっき2

[][]本読み。その過程か。読後感か。:G・ガルシア=マルケス百年の孤独本読み。その過程か。読後感か。:G・ガルシア=マルケス『百年の孤独』 - bluescatの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 本読み。その過程か。読後感か。:G・ガルシア=マルケス『百年の孤独』 - bluescatの日記 本読み。その過程か。読後感か。:G・ガルシア=マルケス『百年の孤独』 - bluescatの日記 のブックマークコメント


 夏休み、二日目、は、海だった。

 でも、書くことはない。私が、ビールをたらふく飲んで、酔っ払って、××は海に還ります、とかなんとか言って、ぶくぶく溺れながら海に漂っていた、なんて話、面白くもなんともないし。

 暑くて楽しくて酔狂な思い出が、頬と肩と背中と胸元の、かすかな日焼けの跡とともに残っている。


 三日目は中日。なんにも予定を入れない日が一日くらいあるのもいい。

 六月くらいからずっと読んでいる本があって、それがあともう少しで終わりそうだったので、この機会に読み切ってしまうことにした。

 ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』。


百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

http://d.hatena.ne.jp/asin/4105090119

d:keyword:百年の孤独/d:keyword:G・ガルシア=マルケス


 このかたの作品は、友人から借りた『予告された殺人の記録』以来二冊目。以前からずっと読みたいと思っていた念願の作品。でも。本を読む時間が朝と帰りの通勤時間に限られていたので、一日に読み進められるのは、わずか、五、六ページくらい。ひどい時――頭がぼうっとして働かない時は、二、三行読んでは戻って、五、六行読んではまた戻って、というのを繰り返し、そのくせちっとも頭に入らなくて、結局一ページも進まないこともあって。そんなペースで読んでいたものが、やっと終わろうとしているというのが感慨深い。

 G・ガルシア=マルケスコロンビアの作家である。私がこれまでに読んできたのは北半球の作家のものがほとんどだが、それとは全く異質という印象を受けた。濃密な細部と、魔術のように次々と繰り出されるエピソードが、見る見るうちに根を伸ばし葉を拡げる熱帯雨林の植物のような圧倒的迫力を持って、描かれている。八月に入ってからのじりじりと身を焦がすような酷暑が、作品の世界観と相まって……。『百年の孤独』を『体験』する、ゾクゾクするような悦び。さすがに午後の暑さは堪えられずカフェに逃げ込み、アイスコーヒーを飲みながら、残り五十ページほどを一気に読み切り、ほっと一息をついた。

「こういう圧倒的な語りを前に、一体どういう「解説」が可能なのだろう。全く途方に暮れてしまう。」

 と解説にあったが、まさにそんな感じ。

 ものすごく濃密で奇想天外な夢を見て、ぼんやりと目覚めたときのような、軽い倦怠感。まだ夢から覚め切れず、呆然とするような。不思議で素晴らしい体験だった。


 そうそう。先日、知人と談話していた際、ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』の新訳、『目玉の話』を読んでいたのだけど、読み終わるのがもったいなくて、途中で読むのを止めた、というようなことを言われて。


マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)

マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)

http://d.hatena.ne.jp/asin/4334751040


眼球譚(初稿) (河出文庫)

眼球譚(初稿) (河出文庫)

http://d.hatena.ne.jp/asin/4309462278


 知人曰く、面白いものは読み終わりたくない、と思ってしまうのだそうだ。だから、途中で止めちゃう、と。

 私なんて。面白ければ面白いほど、もったいないから、読み終えたい。読み終わったら、また別の面白いものを読みたい。なんて思ってしまうのに。……贅沢なのだろうか。欲張りなのだろうか。

 他にも、その世界にずっと浸っていたい、読み終えたくない、という趣旨のことを言っていた人もいたような。いずれも男性。

 例えば、ライヴ演奏のように。ずっとその演奏に浸っていたいと思う、ということだろうか? それは分かる気がする。気持ちの良い演奏は、ずっとそれに浸っていたいと思うものだ。とすると、知人にとって、本を読むという体験は、気持ちの良い音楽を聴いているときと同じようなものなのだろうか? 気持ちの良い演奏にひとしきり浸ったあとの余韻というのもまた格別なのだけど。もしかすると、私は、その余韻を求めているのかもしれない。

 体験の、その過程を楽しむか、体験した後の余韻を得たいと思うか、という違いなのだろうか。

 知人にすれば、何気ない発言だったのかもしれないが。ずしりと来る一言だった。


 ところで。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。

当初の構想ではこの小説はそれぞれ独立したものとしても読める二部によって構成されるものであったが、作者の死によって第二部(第一部の十三年後の物語)は書かれることなく中絶した。今日われわれが『カラマーゾフの兄弟』として知るこの小説は、壮大な未完結作品なのである。ただし、小林秀雄が評するように、本作は「およそ続編というようなものがまったく考えられぬほど完璧な作品」となっている。

Wikipedia - 『カラマーゾフの兄弟』 より)

 この作品は、未完でも良い、というのは理解できる。『一部』だけで完璧な作品として読めるから。むしろ、『一部』で終わっているからこそ良いのだという意見にも、賛成できる。でも、もし、『二部』まであったら。私は、読んじゃうなあ。きっと。読みたくないような気もするけれど。きっと、読む。




 どうですか? 『カラマーゾフの兄弟』第二部。貴方は、読みますか。読みませんか。


 面白い本、もったいなくて、途中で止めますか。もったいないから、読み切りますか。――なんてねえ。




カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

http://d.hatena.ne.jp/asin/4334751067

d:keyword:カラマーゾフの兄弟/d:keyword:ドストエフスキー


*新訳。私は未だ読んでいない。











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2007-08-19なつやすみのにっき1

bluescat20070819

[]支店が本店を潰すという仮説と妄想 支店が本店を潰すという仮説と妄想 - bluescatの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 支店が本店を潰すという仮説と妄想 - bluescatの日記 支店が本店を潰すという仮説と妄想 - bluescatの日記 のブックマークコメント


 夏休み、第一日目。晴天。


 私が立てた夏休みの壮大な計画では、第一日目は、海へと繰り出す予定だったのだが、友人の提案により、ゆっくりとスタートを切ることにした。

 友人は、まず、夏休みをさっぱりと迎えるべく、散髪に出かけていった。

 友人が故郷に居を戻して一年以上になる。けれど、いまだに散髪は、かつて住んでいた地域の馴染みの店に行くことにしている。何度かは浮気をして、現在の地元の店に足を運んでみたそうだが、その都度、無残な結果となって店を出ることになるので、自分の思った通りに仕上げてもらえる、かつての馴染みの店に行ったほうが確実である、という結論に至ったようだ。

 馴染みの店があるってのは、いいね。

 私には、ない、なあ。

 今までいろんなところに住んだり、いろんなところで働いたり。東京の街を東から西、北から南へと渡り歩いてきたような気がするけれど。思い出ばかりが、この、握った指と指の間から零れ落ちてゆくような感じ。

 いつか、私にも、愛する東京の街を離れる時が来るだろう。

 そうなった時、時折訪れる、あるいは訪れたくなるような、『あの店』、みたいなものが、私には、きっと、ないだろうと考えると、ちょっと、さみしい。

 これから見つければ、いいじゃん? そうね。でも、きっと、私は、これから先も見つけることはないのだ。とか考えたりした。


 友人のかつての地元で、一緒に昼食をとった。

 地元マダムに人気の洋菓子店の、これまた人気のランチ。見渡すと、女性客ばかり。女性に人気のある店は、美味しい。というのが私の勝手な持論で。いや、本当はね、料理人と呼ばれる人に男性が多いように、美食家と呼ばれる人に男性が多いように、男性のほうが味覚が鋭い人が多い、というのは分かっているのだけれど。……女性は、シビアだから。味、内容、雰囲気、そしてコストパフォーマンス云々に対して。だから、女性客ばかりで賑わっているお店はそこそこの水準以上である、と思っていて。これが外れたことはあまりない、と、自分でその点に満足していて。そして、今回も、その期待が外れることなく美味しい料理を食べさせてもらえて。ますます自分のなんでもない感性を過大評価してみせたりしてね。


 そんな昼食を終え、友人の散髪も終えたので、映画でも観に行くことにした。互いに仕事の疲労感が抜け切れていなかったので、何にも考えずに無条件に楽しめる映画がいいだろうと、なんとなく、『ダイ・ハード4.0』を。私は『3』は観てないのだけど。シリーズ一作目から十九年、前作から十二年ぶりだそうな。公開されて一ヶ月以上経つのに、もたもたしているとすぐに満席になりそうな混雑ぶり。シリーズ最新作への期待の高さ、ブルース・ウィリスさんの人気のほどが伺えた。

 どのへんが『4.0』なのだろう。と思っていたが。面白かった。無条件に、楽しめた。突っ込みどころがない訳ではないけれど。ブルース・ウィリスさん、五十二歳、に敬意を表す、ということで、とりあえず、レビューにもならない薀蓄は自粛しておくことに。


 夕食の為に代官山へ向かった。

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[かつての姿]


 暑いので、ヴェトナム料理が食べたかった。お目当ての店は、渋谷から、てくてく、てくてく、歩いて十五分くらいの、『閑静な住宅地』にぽつんとある。渋谷パルコの中にも支店があるということは知っていたが、どうせなら本店で、ということで、ひたすら歩いた。で、店まで着いたのだけれど。やっていなかった。店の明かりが点いておらず、いろんなものが店の内と外に散乱していて。本日休業とか、そんな感じではなくて、どうやら店仕舞いしてしまったような雰囲気。

 私の中の印象では、辺鄙な場所にありながらも、いつも予約で一杯の、いわゆる『セレブリティー』な人たちで賑わっている、『超』のつく人気店だったのだが。

 時代の流れであろうか。

 軽く衝撃を受けながらも、こうなったら支店でもいいからとりあえずヴェトナム料理が食べたい、ということで、渋谷まで戻り、パルコ店へ向かった。

 休日のちょうど夕食時なのに、お客さんはそれほどいなかった。私の中の勝手な印象がまたも揺らいだ。たまたまその時は客足が鈍っていただけなのか。私がメディアの情報に惑わされていただけで、それほど人気の店ではないということなのか。美味しいヴェトナム料理を食べさせてくれるお店が増えたということなのか。いろんなことを考えたりしたけれど。我々のテーブルのすぐ近くでは、ヴェトナム人と思われる学生風の少年二人が、何か内輪のお祝い事でもしているのであろうか、ジュースで乾杯をしながら料理をつつき合っていて、微笑ましかった。また、やや離れたテーブルには女性二人連れやカップルなどがいて、ゆっくりとヴェトナム料理を楽しんでいる様子だった。もしかすると、本当にヴェトナム料理がすきな人たちが、雰囲気や評判などに惑わされずに足を運んでいるのかもしれない。などと想像した。文句なしに、料理は美味しかった。暑い時期に食べる暖かい国の料理はこと格別だった。ヴェトナムのビール、333(バーバーバー)を飲みながら、生春巻きやフォーに舌鼓を打ち、夏気分を存分に味わうことができた。

f:id:bluescat:20051109123100j:image

[写真を撮るのを忘れたので、以前に本店で食したときの画像]


 帰りはバスで。電車に乗ったり降りたり乗り換えたりせずに済み、バスに揺られながらぼんやりと考え事ができるので、この帰り方、気に入っている。

 で、バスの中で考えたのは、つい先刻のヴェトナム料理店のこと。

 代官山店が本店だというのは私の勝手な思い込みで、本当は違うのかもしれない。けれど、店の名前で検索するといまだに代官山店が最初にヒットするということは、本店に近い、中心的位置にはあったはず。なので、本店ということにしておく。確か、支店ができたのは、二年くらい前か。ああ、あの店の支店ができたのか、駅から近くて便利かも、なんて思った記憶がある。……で、その本店が潰れ、支店であるはずの渋谷パルコ店は残っているという現状。

 例えば。あの店の味がすきで、本店に通っていた人がいるとする。どの駅からも歩くし、駐車場もないから車でも行き辛い、でも、美味しいから、と。しかし、渋谷店が出来たことで、そういった人たちが、そちらに流れていったら。本店に訪れる人が減り、さびれていき、あえなく閉店という憂き目に遭ったとしたら。支店が出来た所為で、客が減った、という考え方をすると、支店ができなかったほうが良かったのだ、安易に支店を作るものではない、なんて。訳知り顔で吹聴してみせたりして。

 ここで、くるりと発想を変えてみる。

 もしかすると、経営者にとっては、代官山店はいつか畳みたいと思っていた店だったのかもしれない。とか。代官山店の客を渋谷パルコ店に流動させた上で畳もうと思っていた、その時期が訪れただけなのかもしれない。なんて。

 または。あえて、近くに支店を作ることで、店の活性化を図ろうとしていたのかもしれない。とか。ひとつの店に拘るより、アクセスの便利な店を近くに据えることで、本店に刺激を与え、互いによりよい店作りをすることができるのではないかと考えたのかもしれない。とか。

 いずれにしても、時代は変わり、かつては『セレブリティー』で賑わっていた(らしい)店は、役割を終え、ひっそりとその跡を残すのみとなっていた。

 真実のほどは分からない。本店が潰れ、支店が残っている、という現状があるのみ。もしかすると支店が本店を潰したのかもしれない、という私の妄想が、ただただ都市バスのゆったりとした移動速度の中、ものすごいスピードで駆け巡ったというだけの話だ。

 そのうち、バスが中野駅へ到着しようとしていた。

 中野といえば、丸井本店があるのだが、この本店は、今年八月二十六日、創業六十年目に閉店となる。

 丸井に特別思い入れがある訳ではないが、『中野唯一』のデパートなので、新宿や渋谷まで出なくても、買い物ができたのは便利だった。丸井の場合は、新宿店や渋谷店、吉祥寺店等々、近隣の店の影響というより、現在の地域性に合っていない、とか、そういう理由かもしれない。

 確か、丸井の新宿支店である「マルイONE新宿」(通称「ワンジュク」)は、なぜかゴスロリ服が豊富で、「その道」の人たちの間では「聖地」となっているそうだ。なぜそうなったのか、経緯は定かではないが、求められてそうなったのであろうと想像できる。地域性や客層に応じて独自の個性を増し、形作られていったのだろう、と。とすると、中野本店は、形作られることなく、あるいは形作られたものがもはや需要を満たすことができず、その役割を終えようとしている、ということだろうか。『中野唯一』のデパートは、時代の波に飲まれ、役割を終えて、この世から姿を消す。

 ヴェトナム料理店から端を発し、丸井中野本店に及んだ空想は、ネットの世界まで飛び火し、さらに妄想が拡がった。

 『Web 1.0』の象徴だった、いわゆる『ホームページ』。自分で HTML を書いてページを作って FTP でアップロードして。日記を書いたり、エッセイを綴ったり。

 かつて日記サイトやテキストサイトと言われるような『静的』サイトを公開していた友人・知人の何人かは、本家として『静的』サイトは残しつつも、別館としてブログを開設し、現在ではすっかり、別館が本館になってしまったような感じに。でも、それは、時代の流れ、仕方がない、というより、そうなるべくしてそうなった、というように見受けられる。かつての『本家』はその役割を終え、ネット上にその跡を残しつつ、『1.0』で培われてきたものが受け継がれて、より便利な『Web 2.0』的ツール――ブログという新たな河岸で息づいている。

 そんな中で、いまだに静的な『ホームページ』でせっせと更新し続けているサイトもあって、それはそれで、良いものだな。とか思ったり。

 どちらがいい、とか、どちらが悪い、という話ではなく、自分に合った形で表現したいものを残しておける場所がある、というのは、いい。うらやましい。と思うということ。今までにいろんな日記サービスやらブログサービスに手を出しては自ら潰してきた身としては。東京に十年以上も住みながら、『馴染みの店』をひとつも持たない身としては。

 自分が本当に残したいと思うものを、残したい形で維持していくというのは、難しいことなのかもしれない。などと考えたりした。


 さて。明日は、海だ。











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2007-08-11自分探しの旅って

bluescat20070811

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 なつい……。(*1)

 今日から夏休み。いちおう、九連休。

 この休みの為に、まいてまいて、がんばって、仕事を終わらせてきた。でも、結局、一日か二日は、出勤することになるかも?

 この場合、休日出勤扱いにはならない。……当然?

 休みの期間中は、ちょこちょこと、旅に出るかも。

 あ、間違っても、「自分探しの旅」、とかじゃあ、ないですよ。

 そもそも、探せるような自分がいるなら、とっくに、探し出しているさ。











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2007-08-04自分はどう解釈するかが重要:ノー・ウーマン・ノー・クライ

bluescat20070804

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◆バスルームで汗を流しているあいだにきみが観ていたライヴビデオを、今日はひとりで観る土曜日の午後

 小見出しタイトルに意味はないのだけれど。

 なつい……。(*1)

 暑い季節になると、暑い国の食べもの、飲みものが恋しくなる。

 タケノコの入ったタイ風グリーンカレーの、爽やかな辛さとココナッツミルクのコクが咽を通ってするすると降りてゆく感覚が心地よい。シンハーをくいっと一口含み、辛味とコクを洗う。そして、また一匙、グリーンカレーを口へと運び、ビールで流し、アメリカ南部の作家、フォークナーの短編をぱらぱらと読み返す。

 夏になると、耳にするものも同様で、こと暖かい国の音楽が聴きたくなる。ハワイアンとか、ボッサノーバとか、ブラジリアンとか。で、一番聴きたくなるのは、レゲエ。とにかく聴いていて心地がよいから。

 暑い国の人が辛いものを食べるのは、汗をかいて涼しくさせる為だと聞いたことがある。

 暑い国の音楽のリズムや楽器には、暑さをしのぐ為の秘密が隠されているのかもしれない。


 で、今、『Yahoo! 動画』で、ボブ・マーレィ(ボブ・マーリィボブ・マーリー)さんのライヴ DVD 『ライヴ・アット・ザ・レインボー』からの映像がストリーミング配信中なので、観ているところ。



 いやあ、カッコいい。というか、スゴい。なんじゃそれ? という感想だけれど。観れば、きっと、分かっていただけるのではないかと。

 ストリーミング配信は、8月7日まで。……おしいっ! 8月8日だったら、「フジテレビの日」だったのに。(ハァ?)




◆ノー・ウーマン・ノー・クライ

 ボブ・マーレィさんの楽曲で一番か二番に有名な『ノー・ウーマン・ノー・クライ』

 このライヴ映像では、スタジオ録音バージョンに近い感じ?

 前にもどこかで書いたような気がするけれど。この、『ノー・ウーマン・ノー・クライ』という曲。哀愁を帯びた旋律と歌唱とが相まった『名曲』で。とりわけ、タイトルにもなった「ノー・ウーマン・ノー・クライ」の部分が、いろいろな解釈をされていることでも有名のようだ。


(A)No Woman, No Cry「女がいなければ、泣くことはない」「女さえいなけりゃ、泣かずに済むのに」(泣くのは男)
(B)No Woman, No Cry「泣かない女などいない」 「女はみんな泣いている」(泣くのは女)
(C)No, Woman, No Cry「いいや、女よ、(ぼくは)泣いてなんかいないよ」(泣くのは男)
(D)No, Woman, No Cry「だめだ、女よ、泣くな」(泣くのは女)


 おそらく。(A) とか (B) が、より文学的な解釈で惹かれる人が多いのかもしれない。悲哀と諦念とが入り混じったようなやるせなさが、あるように思える。

 (C) の場合は、歌詞にもあるように、亡くなった親友を思い返し、その悲しみを乗り越えようとしている姿を想像すると、しっくりくるような気もする。

 で、(D) だけど。歌詞の他の部分、'So dry your tears, I say ...' や 'little darlin, don't shed no tears' 等、全体を通して読んでみたときにすっきりとはまる感じがするので、個人的にはコレかな? という気がしている。


 泣いちゃだめだよ。いつかきっと、すべてが良くなるよ。

 と女の人(奥さんであるリタさんだけでなく)に呼びかけながら、じぶんにも言い聞かせている。そんな気が。


 ……でも、歌詞というものは、書いた本人にしか、本当の意味は分からないのかもしれない。ひょっとすると、書いた本人にさえ、ワカリマセーン、ってことだってあるのかも? そもそも意味なんてない、のかもしれない。とか言ってみたり。

 それでも、あれやこれやと想像するのがたのしいわけで。

 もしかすると、「意味がどうであるか」ということより、「自分はどう解釈するか」ということが、重要なのかもしれない。



  ♪ Everything's gonna be all right,

   Everything's gonna be all right,

   Everything's gonna be all right,

   Everything's gonna be all right,

   ……




◆強力な遺伝子

 さて。最後にトリビア(言うことがいちいち古いよね)でも。


 ●『ノー・ウーマン・ノー・クライ』は、ローリン・ヒルが在籍していたフュージーズフージーズ.The Fugees)でもカバーされている

Score: Bootleg Versions

Score: Bootleg Versions


 (私は、このバージョンもすき)

 で、ローリン・ヒルさんは、ボブ・マーレィさんの息子さんとご結婚されて。

 なんとなく、納得したのだった。



 ●ステフ・ポケッツ(STEPH POCKETS)というフィメール・ラッパー(ラップをやっている女性)は、ボブ・マーレィの娘

Can’t Give Up

Can’t Give Up


 本人としてはその出自を取り沙汰して欲しくないらしい、ということが取り沙汰されている(…)ようだ。

 あれほど偉大な人の娘である、ということを取り沙汰して欲しくない、というのは、無理があるのかもしれない。しかも、同じミュージシャンとしての道を進んだのだから。ボブ・マーレィさんの息子さんは、みんな、ボブの声をしているしね。ものすごい強力な遺伝子だ……。ジョン・レノンさんの息子、ジュリアン・レノンさんの声を聴いたときにも、驚いたけれど。血は争えない、ということだろうか。もしも。その血筋を取り沙汰して欲しくない、比較してほしくない、とするなら、フツウにイイ作品を作っているくらいではだめだろう。なんて思ったりする。

 あまりにも有名すぎる人を親に持つというのは、もしかすると、そうでない人よりも、ずっと、ずっと大変なのかもしれない。






 ちょうど、ライヴ映像が終わった。別の音楽をかけながら、だらだら身支度をして、出かけることにしよう。ながら聴きするのに、ちょうどいいのはなんだろう?

 ラヴァーズ・ロックもいいね。あ、ビーチ・ボーイズもいいけれど。ボブ・ディランレゲエ アーティストによるカバー集、『Is It Rolling Bob?』でも聴こうか。


Is It Rolling Bob? a Reggae...

Is It Rolling Bob? a Reggae...


 ね、ジャケが、いいでしょ?











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2007-08-01「ぼくブログ嫌いなんです。」:彼がブログを嫌いだという二、三の理

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f:id:bluescat:20070722212440j:image

ブログ - Wikipedia -



 --- 「「ぼくブログ嫌いなんです。」:彼がブログを嫌いだという二、三の理由・前編」


 長くなりそうだったので、前・後編に分けてみたのだけれど。

 「ブログが嫌いだ」、という、ヘンな、同僚のハナシ。 以下、後編。




◆「プロじゃない人の書いたものなんて、読む価値がない」?

 さてさて。

 「ブログ嫌い」 宣言をする 『彼』 にその理由を尋ねたところ、「ブログなんて、くだらないことしか書いてないじゃないですか」 と言われ、あ然とする私であったが。 そんな私を尻目に、さらに驚くべき発言がなされた……。


「プロでもなんでない人が気安く文章を書いて、それを世に晒したりしちゃいけないと思うんです」


 ……。

 申し遅れていたのだけれど。 私たちが勤めている会社は音楽に携わる業務を行っていて。 『メジャー』 レーベルからCD等の作品を発表している 『プロ』 のミュージシャン・歌手・クリエイターと深く深く関っている。

 『彼』 としては、きっと、そのことを誇りに思っているに違いない。

 自分は、選ばれし 『プロ』 の作品を扱う、選ばれし者なのだ、とでも。

「素人の書いたものがあふれると、レベルが下がるし。 読む価値のあるものが埋もれちゃうじゃないですか」

 とまで言う始末であるからして、『プロ』 ということに異常なこだわりを示しているのである。

 ……ええと。 とすると、


  『プロ』 が書いたもの = 価値がある

  『プロ』 じゃない人が書いたもの = 価値がない


 ということになってしまうのだろうか? 表現というものは、そんなにはっきりと二極化できるものだろうか?

 どんな人にだって、アマチュア時代がある、と思うのだけど、現在プロとして活躍されているかたのアマチュア時代のものは価値がないとでもいうのだるうか?

 例えば、限りなくプロに近いアマチュア――いうなれば、『プロ予備軍』 のような人もいるけれど、それはどうなるのか?

 また、かつてはプロでありながら現状はアマチュアとして活動している人もいるけれど、同じ人のものでも、プロとして発表した作品には価値があるが、アマチュアとなった途端に価値がなくなってしまうのだろうか?

 ……というものすごく当たり前な疑問が生じる。

 なんらかの形でプロとして認められた人の作品は、やはりそれなりに優れているとは思うけれど、だからって全部が全部面白いとは限らないし(ギャー、本音)、アマチュアの作品だからって面白くない、劣っている、とは限らないのではないか、……って、とってもとっても当たり前に思うことのような気がするのだけれど。

 「レベルが下がる」? ―― 下がらないようにするのが 『プロ』 としての役目であり、それを支えるのが我々の仕事なのではないだろうか?

 「埋もれちゃう」? ―― 埋もれてしまうような作品ならば、所詮それだけのものなのではないのだろうか?




◆『小さな』 アクション

 たとえば。 巷で話題の、リア・ディゾンさん。

L・O・V・E U(初回限定盤)(DVD付)

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 「グラビア界の黒船」 なんて言われているこのかた。 聞くところに依ると、デビュー前に自身の個人サイトにアップした写真がきっかけでデビューとなったそうな。 なんでも、アップされた写真のあまりにも可愛らしい笑顔が評判となり、一目見たいとサイトを訪れる人が殺到。 こと日本からのアクセスが多く、ファンが投げたコメント 「日本においでよ」 の言葉に触発され、来日。 そして、日本でデビューするチャンスを掴んだとか。

 なにがどう人の運命に働くかなんて分からないものである。


 たとえば。 “アコーディオン弾き語りシンガーソングライター” の中山うりさん。

DoReMiFa

DoReMiFa

 このかた、かつてはPC配信のみで作品を発表する 『非メジャー』 アーティストだったそうなのだけど、オリジナリティあふれるパフォーマンスが評判を呼び、「配信の女王」 「アコーディオンを抱えたシンデレラガール」 と大きな話題に。 iTunes Store 日本の Jazz 部門でも、『メジャー』 アーティストを抑えて売上げランキング一位を記録したとか。 その評判を受けて、CD作品をリリースし、『晴れて』 メジャー入りを果たしたそうな。

 なにがきっかけとなってプロになるかなんて、分からないものである。


 ……って、これらの例は、あまたある 『デビュー秘話』 のうちのほんの一握りに過ぎない。

 見渡してみれば、いろんな人が、いろんなきっかけでプロへの道を切り開いている。アマチュア時代のさまざまな経験を経て。

 『小さな』 アクションが、どんなふうに転がっていくかなんて、だれにも分からないことであり、だからこそ面白いのであるが。

 それでも 『彼』 は、『非メジャー』 を否定するのだろうか?




◆プロの限界、アマの無限?

 「「ぼくブログ嫌いなんです。」:彼がブログを嫌いだという二、三の理由・前編」 において、ブログというものがここまで幅広く認知された理由として、「面白いブログがあった (ある) からではないか」 と述べたが、もう一つ、思うところがある。

 それは、「いわゆるプロの書いたものにある種の限界を感じる向きがあったからではないか」、ということだ。


 例えば、著名な雑誌・サイトの 「ケーキ特集」。

(男性は、「ケーキ」 を 「ラーメン」 にでも置き換えるといいかも?)

 美味しいと評判のケーキ屋さん、行列のできるケーキ屋さんが、プロのライターによるコメントと見目麗しい写真とともに紹介されてたりなんかして。 わーおいしそうと買いに行ってみるのだけれど、評価ほど美味しくないじゃん、並んでまで買うほどじゃないじゃん……なんてことが結構あって、がっかりすることがある。 期待しすぎ?

 こういうとき、お金や利害のニオイをプンプン感じてしまうのである。

 もちろん、ちゃんとした特集もあるだろうし、味覚というのは人それぞれなので、好みに合うかどうかは、実際に食べてみないと分からないというのも確かなのだけれど。

 でも、某 AskU, 某 Livedoor グルメ、某 食べログ 等々の、いわゆる 『口コミ』 サイトが人気となったのは、『素人』 がなんの損得もなしに 『気安く』 述べた感想のほうがよっぽど信頼できると思う人が多数いたからではないか、という考え方ができないだろうか。

 利害のニオイのプンプンするような 『信頼できない』 プロによる情報に対価を払うなら、ネット上で無償で公開されている情報で充分だ、それよかよっぽど参考になるし面白いじゃん、という風潮が高まったのではないか、と。

 プロにしか書けないこと、もあるけれど、アマチュアだからこそ書けること、もある。

 『メジャー』 に幻滅した人たちが、自らブログを立ち上げるようになって。 個人ジャーナリズムが台頭し、企業やプロのジャーナリストを脅かすまでになった。 マーケティングにおいては、『Web 2.0』 で定義されている 「ロング・テール」 なるものが見込めるまでになったのはご存じの通り、かしら。


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[ロング・テールの概念図]




◆逆向き作用した流行

 静的なウェブサイトに替わる情報発信手段として、『アマチュア』 によって生み出され、進化を遂げた 『ブログ』 というツール。 最初は個人ジャーナリズムでしかなかったはずである。 そのツールを、今では、プロの作家やジャーナリスト、ミュージシャンから果ては企業の社長までが、『公式なサイト』 としてフツウに使っている。

 プロの作家が、『非プロ』 のブログの記事を盗作した、という話題も記憶に新しいけれど。

 『プロ』 から 『アマ』 へ、ではなく、『アマ』 から 『プロ』 へ。

 プロから仕掛けられるのでなく、『アマチュア』 自らがムーブメントを起こした。

 下流から上流へ、流れが逆向きに働いた顕著な例の一つではないだろうか。

 それでも、『彼』 は、「ブログなんて、くだらない」 というのだろうか?




◆驕りと怠慢

 因みに 『彼』 は、同じ理由で YouTube 等の投稿動画サイトも大嫌いだと言う。 素人の作った動画など……、という気持ちでいるらしい。


「やつら (投稿者?) に、こっち (プロ?) の領分が侵されている」


 と。

 だ・か・ら。 簡単に侵されるようなものなら、大したことがないのだって。

 投稿動画サイトが人気となったのは、プロの驕りと怠慢が生んだ結果なのかもしれない、と受け止め、精進していかなくてはいけないのだよ。

 やっぱりプロが作っただけあって面白い。 さすがはプロの仕事だ。 そう思われるものを創造していかなければいけないのだよ。

 ……っていうか、創造しているのはアーティストであって、キミ自身ではないでしょうが。

 我々の仕事は、優れたアーティスト/作品を発掘すること、そしてそれを世に広める為のお手伝いをすること。 ただそれだけでしかないのに。 思い上がるのもいい加減にしてもらいたいものだ。 ……と腹が立ちすぎて、なんの反論もできなかったことが口惜しい。 私が何も言わなかったことで同意を得た、と思っているのかしら。 ああ、いやだ。

 『彼』 に言わせれば、取るに足らない、埋もれてしまうようなかすかな 『呻き』 でしかないのかもしれないけれど。

 このかすかな 『呻き』 が、ウェブの網を通じて繋がって。 少数でも共感をいだく人がいてくれれば、本望である。






 そうそう、余談だけど。

 『彼』 はその後、なんの挨拶もなしに突然会社へ来なくなり、電話をしても一切出ず、向こうからも連絡をよこさない、というナゾの挙動に走っておしまいになった。 その後、彼の姿を見たという人は誰一人として、いない。


 いきなりプッツン (死語か) して、会社に来なくなるなんて、小学生か。 自分勝手で職場に多大な迷惑をかけるような人が、『プロ』 意識だなんて。 お笑い種である。 と思ってしまったのは、もう、とおい、過去のこと。











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- a kind of serial novel -

[“FOR GET”(フォー・ゲット)]

http://d.hatena.ne.jp/bluescat/




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bluescatbluescat2007/08/02 00:36(ブログ主コメントです)
間違えて、自分で☆を追加してしまいました...。
☆を消す方法はないのですね...。

namgennamgen2007/08/04 10:43☆は消えないですよw。読ませていただきました。私はあなたも御存知のようにgooでは2年ぐらい書いてました。そしてはてなはもう足かけ4年です。ブログに於いてプロかアマかの線引きは微妙に難しいですね。「日記」ということにしておけばそれだけでしかありませんし、コミュ・ツールだと言えばそれだけでしかありません。webというものはそれだけの意味しかもちません。私は意外とそのあたりの見方は冷徹に見ています。私はブログというものの繋がりを試みるものとして既に御存知だと思いますが別にRingというものも主宰しています。いわばそこはプロもアマも混在しているわけですが緩い繋がりの中でこのwebを或る意味ではクールに見ている者達だとも言えます。メンバーの中には音楽関係の世界の方もいるし詩人や翻訳者、大学教授も居ますし、その他多彩であるとも言えます。メジャー非メジャーも含めてですがあまりプロアマという意識は互いに持っていないとも言えます。たぶんリングを構成しているものは手応えのある他者に触発されたいという淡い願望が繋がりを支えているのではないかと思っています。ブログ文と表現された世界(たとえば言語というものを使うにしても)とは表現の手法という点で全く識別されるものを持っていると思っています。twitterなんかの中ではそのあたりのことが晩御飯のオカズはなにかということのほかによく話し合われるんですが意外とみんな淡々としていますね。

bluescatbluescat2007/08/04 17:45namgen様、こんにちは。
コメント、有難うございます。
なるほど...。そうですね。
プロとかアマとか線引きをしたがっているのは、古い業界体質に染まった記事中の『彼』(や私)くらいなのかもしれませんね。
ウェブにおいては、垣根が取り払われ、同じフィールドで物言いできるところが面白いのかもしれません。
Ring の皆様の記事も拝読しています。まさに繋がっていくところが、きょう日のウェブという感覚で興味深いです。
> 意外と淡々
というのは、ウェブの混沌をくぐり抜けてきた皆様だからではないでしょうかと想像いたしました。
ウェブという双方向メディアの中でどのように相乗作用していくのか、という繋がりは持ちつつも、互いに依存するのではなく、馴れ合いな関係性を築くのでもなく、一個の表現者として確立しているのではないかと。
私はブログを一年足らずやって、その後ずっと遠ざかっていたので浦島太郎状態、はてなダイアリーも謎だらけ、で、必死な状態wです。

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