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2007-04-24

[]批評転載 13:07 批評文転載 - 狂人花畑番外地 を含むブックマーク はてなブックマーク - 批評文転載 - 狂人花畑番外地 批評文転載 - 狂人花畑番外地 のブックマークコメント

以下の文章は先日私が書いた詩『受容の、穏やかな末路』についてid:namgen氏がC-U非公開フォーラムに於いて書いて下さった批評です。つまりC-U外部への公開を前提にした評文ではないということを予めお断りしておきます。転載にあたっては御本人及びC-U編集長の了解を得ているものです。

以下、南無氏の批評文、ほぼ全文です。

 

『受容の、穏やかな末路』

 コンポラGで高々と「詩」であるという宣言においての作品がC-Uにおいて初めて載せられた。散文的なものではなく詩と言えるものだと宣言している。読み終えたあとその投げかけてくるオドロオドロしき言葉から何を読み取るれるのかということ以外に喩の連動してゆくものがどのような成り立ち方をしているのかを考えていた。詩的言語言葉として生きるためにはその表現するところのものが時代性の中で一定の水準をもって獲得してゆく必要がある。

 まず現代詩というものの持つ韻的な律動があり、すべからくその言葉が獲得しようとする意志力の目指すところにおいて像領域を覆い尽くそうとする力を持ちうるか、と言うことにもなる。また逆に時としは一切の形式を排除し、なおかつ既成言語の崩壊を目指しその時代を拒絶するかのような鮮やかで屹立した言葉を獲得させなければならない。それが詩的表現の極北であると思っている。

 第一行の詩句の始まり“すでに消息も途絶えた、予期された末路の日”とあり、終わりの“「予期された末路の日」を受容して こうしてただ、ここにいる”という詩句に対応して終わっている。この対応の詩の閉じ方はいみじくも彼女がその詩句を書いたときに終わり句の位置として既にあった言葉であると思われる。もしくはそう閉じるしかなかったという思いで書かれた言葉だと思われる。つまり彼女の意識が言葉によって解き放されているのではなく観念によって閉ざされていることを我々に教えているようなものである。また、それ以外の行で彼女が取り入れている手法はきわめて小説的な手法に近く像領域が創り上げてゆく言語空間が彼女の意図とするところの内的時間を詩的言語まで拡張することなくどこまでも空間性に伸びてゆこうとしているような結果を招いているように見える。

誰にもへつらうことのできない、かたくなな傭兵がいて
 

 「へつらうことのできない」という言葉は後に続く「かたくなな傭兵」を強調するための修飾的な言葉であるのだが私には過剰な形容であるように感じさせてしまった。なぜ「かたくなな傭兵」という言葉だけで書き得なかったのかと思ったのである。またこのような表現に近いのだけれども下記の部分についてもひとこと言いたい。

小舟と水面の触れ、「ちゃぷ。ちゃぷ。」と繰り返す、かすかなトレモロ
時折の梟の鳴く声、夜鷹のおおげさな羽音、淡水魚の跳ねる水音、
 

 音的にも夜の静けさを顕していることは分かるのだが、梟や夜鷹と重ねられては、ちと詩的イメージが壊れるのではないかとも思うのであった。ただ一行一行が詩的なものから解き放たれたときにはまた違った像領域が描かれた可能性があるとだけ言える。詩はどこまでも内面の時間性を下降してゆくものであり、最後には言語の対他的な意味性をも消失してゆく場合がある。無論そういったことを彼女に勧めているわけではないが再度自分が創り上げた一句一句の創り上げたイメージが澱むことなく、またその生み出した言語が読み手に喩を意識することなく惹き入れることが出来るかと云うことも大切なことである。 

 これは私自身の詩表現に対する憧憬みたいなものもあるのだが、瞬間の美というものあるのならそれを信じたいという気持ちが強く、まさしく連動してくねりゆく喩のもたらす垂直的時間というものがきっと「瞬間の王」なのではないかと思っている。では最後に下記のようにした場合はどう視えるのであろうか。

すでに消息も途絶えた。予期された末路の日わたしは蛹になっていた。土の中はどこまでも生温く風も雨も陽ざしも涼やかな木陰もなく遠い耳鳴りだけがいつまでもこだまして、パリパリと乾いた甘露の膜の内側では足の小指の先から順に壊死がはじまっていた。
 誰にもへつらうことのできない、かたくなな傭兵がいて、或る半月の晩馴染んだ鎧を脱いだとしよう、その夜を越えるためだけに。わたしは湖のほとりにいてわたしに弱められることだけを望む男を待っていた。来るべき者がそこに来て迎えるべきわたしという者がそこにいて、そうして夜を渡る小舟を漕いでやった(・・・ダレニモ言ワヌ、コノ舟ハ恥ノ舟)甘噛みし舌を差しいれ掻き混ぜてやり膿を吸い出しては新たな生き血を注ぎひからびた唇を幾度となく丁寧に愛した。小舟と水面の触れ、「ちゃぷ。ちゃぷ。」と繰り返す、かすかなトレモロ。時折の梟の鳴く声、夜鷹のおおげさな羽音、淡水魚の跳ねる水音、それらに見守られてわたしの乳房と腰に両の手のひらの痣をくっきりと残しつつ傭兵声帯を閉じたまま、ただそのからだを震わせた 眼を光らせて、夜鷹が、ふたたび羽ばたいた 消息は途絶えた 静寂の湖畔、そして森だけがあり、生爪を剥がしながら土を掘りすすめたわたしは横たわるための窪みをしつらえて躰を置きやがてしずかに蛹になっていた。たった一人の男を弱めて、一夜を渡る小舟を漕いでやり、夜明けの岸辺であろう湖の向こうへと連れ出して。生の役目を終えた壮大なわたしだけの充実を爪先から順に腐らせながら、飴細工のような蛹の硬膜に守られたわたしがここにいる。「予期された末路の日」を受容してこうしてただ、ここにいる。
 

 反論は大いにあるだろうとも思うのだが、もしこういうのも有りとすれば、やはり有りなのではないかとも思った。批評としては短すぎるのではないかと思うが微に入り細に入りというのも如何なものかと考えた次第である。-By 南無玄之介-

[]読まれてこそ 13:16 読まれてこそ - 狂人花畑番外地 を含むブックマーク はてなブックマーク - 読まれてこそ - 狂人花畑番外地 読まれてこそ - 狂人花畑番外地 のブックマークコメント

結論から言うと私には反論などない。誰にどう読まれたとしても反論などあるわけがない。むしろこのように私個人が持ち得ない視点から読み解いていただけることは宝である。

C-U内部(非公開フォーラム)では寸評会や入会審査などがあり、他人の作品について批評することを避けられないのだが、私は南無さんの評だけは常に信頼している。絶対的にブレがないからだ。他メンバーダメだというわけではない。読み手となるのはいつの時代も、そういったブレを内包する「わたし以外の人」であり、そうでしかないからだ。

作品についての『長所』を知っているのは実は書いた本人であり、しかし本人にだけわかる長所だけでは作品としての完成度は決して高くないのであり、だからこそ批評酷評されるべきなのだ。

この批評の公開を望んだのはコンポラGメンバーに読んでほしかったからである。私はコンポラGメンバーがここに載せている作品は今まできちんと読んだことがない。それどころかC-Uの作品であっても批評しなければならない場合以外は数行読んで「ケッ。」と思うと読まない。「読ませない」作品は読まないということだ。

ということで。せっかくの場です。皆さん書き続けて下さい。

書き続けて下さいとは、読ませてみやがれ、ということである。

namgennamgen2007/04/24 13:27うへぇ!
ほとんど全文じゃないのか。もう一度手を入れたくなる内容なのに・・・(泣

freezingfreezing2007/04/24 17:00ぼくも散文として、小説として読みました。表現が詩的でなくても世界観が詩的なら散文詩としてなりたつのですが、h_catさんの場合は「言葉の吐き出され方」の美しくなさが、詩的であるように感じました。詩とか小説といった区分なんか押し流そうとする「美しくなさ」が感動的でした。
ついでに部外者ですが、アッキーさんの提起している問題は、「同人誌」と呼ばれるものがいつもひっかかるものです。しょせん創造が孤独のものなら、なぜ仲間が必要なのかという問題で、アッキーさんのような(創造への)接近の仕方をすると答えはひとつ、グループは、同人は必要ないと言えるだけでしょう。しかし違う接近方法があるかもしれません。
まあ歴史的にも経験的にも同人誌は長く続くようなものではないですね。

h_cath_cat2007/04/25 03:11>南無さん、短くしようにもどうしてもできませんでした。
詩表現としての一言一句を私自身まだ信頼できていないということなのだろうと批評を読んで思いました。信頼できなかったのは私が詩を書いたことがなかったからです。「これは詩だ」と言った瞬間からすべてが始まったような気がします。思いが先に走り出しただけだった…とも。どれだけ詩を読んでも詩論を読んでも、詩に歩み寄ることはできませんね。でもまたきっと書きます。そう思わせるだけの魔力は体感しましたから。

h_cath_cat2007/04/25 03:16>freezing(M)さん、コメントありがとうございます。「美しくなさがよかった」と言われて嬉しいです。私の書いたものには「瞬間の王」など微塵もありませんでしたが、それでも何か別の世界が開けたように感じたのです。これは今まで書いてきたような言葉の欠片や断片ではない!詩である!と、書いたものに対してはっきり名付けてやりたくなったのです。強烈に。詩はまさしく「生き死に(いきしに)」ですね。書いてみてそう思いました。そしてこう思うまでの間に私はMさん(詩人:井上瑞貴)に少なからず影響を受けたと言えます。私が生まれてはじめて「出会った」詩人であるからです。
それからアッキーさんのTBによって提起されたこととMさんのコメントに関しては、あらためて明日、本記事で書かせて下さい。
Mさんの《言葉に望みを託す》という昨年のエントリー
http://freezing.blog62.fc2.com/blog-entry-47.html
を読んだ時に思ったことや、同人誌、C-U・コンポラGについてなどが複雑に絡まり合って、すぐには書ききれない私なりの思いがあります。たいしたことは書けないと思いますが…。

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