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敵も愚民である

-愚民唯我独尊ごろくより-
 

2006-11-06

namgen20061106

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 この論をはじめるにあたって「-1-」で広辞苑からとりあげた「文体とは」をまだ憶えておられることと思う。再度下に掲げてみよう。

文体とは。

  1. 文章のスタイル。語彙・語法・修辞など、いかにもその作者らしい文章表現上の特色。
  2. 文章の様式。国文体。漢文体。洋文体。または書簡体・叙事体・議論体など。

 また「-2-」において取りあげたのは二人が同じ写真を見ながら見ている場所が物理的にも地理的にも違うということをその空間の了解性の差異ということで示し、また逆に書く者によってよく似た場面が全く違う風に書かれてしまうと言うことの「実践面」を「-3-」においてこのコンポラGの皆さんと「遊ぶ」ことによって示した。これはまず書き手が何を示したいか、何を強調したいかと言うことにも繋がる。そして更にいえばどういう表現でそれを書くかと言うことでもある。それが上の引用にもある「その作者らしい文章表現上の特色。」ということになり、文体がそれを体現しているということにもなる。そのことについての一端はid:PacoGarciaが「コンテンポラリィ・ユニットG」において述べていることも包括されるところのハードボイルドらしさというか、そのクサさの表し方にも出てくるといえよう。クサイ言葉で文体が成り立っていてそれが書き手の特徴も表すと言えるが、ただそれを間違うと単なるクサイだけで終わってしまうのである。北方謙三のワイルド・ターキーまでは許せるが・・・ということでもある。それはこういう事にもなるかと思う。よくよく読むと色々な荒が見える場合もあり説得性があるかどうかを通り過ぎてしまうような場合もある、と。これは言葉が単純に意味性の方に流れていき時間性を失い意図するところの心象を描き切れなくなっているということを我々に示している。

 それでも書き手はこれにこだわる。またそのこだわりが特異な文体を創るということにもなるかと思う。下の引用は「アンモナイトの対数螺旋」から。

私が文章を書く際に念頭に置くことは「プレシオジテ」である。本当は要らないものを削ぎ落とした内田百閒*1のようなスマートな文章こそが美しいと思っているのだが、自分がそういう文章を書こうと試みると、単なる物足りない文章になってしまう。それならばいっそ、自分の書きたいものを書きたいように書いてみることにして、自分でも読みにくいぐらいのコッテリとしてエログロナンセンスの匂いプンプンな気取ったいやらしい文章にしてしまってもかまわないと思うのだ。過剰装飾の美。かつての静物画ボテゴンのように、何一つ無意味なものなどなく、おしゃべりが過ぎるぐらいにあれにもこれにも意味を持たせて「理解してください」と見るものに押し付ける文章。気取っているとバカにされる対象であろうが、私はそれでしか書けないのだから仕方がない。現代における機能美よりも過去における様式美。時代も流行も何もかも無視をして、私は私の書きたいものを私だけの文法で書き上げてしまおうではないの!

  -「現代における私の文章の有り様と恋愛の在り方についての関連性」

 これはある意味では彼女の文体の中で使うものを指す名詞の類まで全て彼女なり意味があり極めて示差性を以てその物に志向された意識を持っていると言う表明だろう。つまりこれは単純なこだわりというものではなく彼女自身の世界を描く上で欠かすことが出来ないモチーフであり像を描くための絵の具ということにもなる。またその絵の具を使う以外に彼女が思うところの絵は描けないということも示している。

 -続く-

*1:うちだひゃっけん:門の間に月

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