愚民の唄 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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敵も愚民である

-愚民唯我独尊ごろくより-
 

2006-11-11

namgen20061111

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 とにかく寄り道や外しなどを繰り返しながらここまで来たのだが、まだ先は長そうだ。

 今までと違い今回も再度寄り道をしたいと思っている。ちょうどid:h_catの新たなコメントも入ったのでそのレスもかねてこの稿を書くことにした。梯子はいつも本論では外されることは無い。ただコメントでは遊ぶことにしている。では始めよう。

 まず、今あなたは小説を書きたいと思っているとしよう。あなたの思いを小説としての形を通してあなた以外の者に読ましめようと企てている。ここまでは誰でもよくあることである。だが問題は山ほど残されている。自分が書きたいものははたして小説なのであろうかという疑問をまず持たなければならない。小説という手段をとらないとあなたの思いは伝わらないのであろうか、と。詩でも短歌でもいいのではないかと言われた場合はどう答えるのであろうか。だがあなたはいう、センスが無いから詩なんて書けない。そして、短歌も形式があり難しそうでよく分からないから書けない。今まで読んできたものが小説だったから、あんなふうに私も書けたら書きたい等々。でもそれはあなたの勝手な思い込みに過ぎなく、やがて、書く、と、書ける、は違う質を持っていることに気づく。それでもあなたはキーボードに向かって書き始める。そして、やがて書き上げたものを自分で読んでみる。「われながら巧く書けたわい」と。でも、それはあなたが勝手に下した妄想に過ぎない。それは自分が恥ずべきと感じることなく下した感想にしか過ぎなく、もっとも惨めなあなたの姿なのである。センスが無いからくだらない駄文にしかならなく、小説の方が簡単だと錯覚したからすぐにくだらないものが書けたのである。またこのことは少し考えれば誰にでもわかることである。キーボードが打てれば誰でも小説家になれるというのであればプロは全員失業の憂き目に遭うことになるからだ。現に自称詩人や自称小説家インターネット・ノベルの世界にゴマンといるではないか。そしてそこにおいていくらかでも互いに傷をなめあい満足しているあなたとソックリな姿をしている者たちがいる。そしてあなたや彼らは異口同音に言う。運が無いのだ。わたしのこの独自な感覚を普通の人間が理解しないからだ。それにもうある一定の読者がついているのだ。とか。しかしそれをいったん覚めた眼で見るとあなたが単なるブロガーに過ぎなく、それ以上それ以下でもないことがわかるはずである。時間がたてば忘れられ、更新しなければそれで終わりである。それがあなたの姿なのである。そしてやがて徒労の果てに書くことをやめてしまうのである。

 ではどうすればいいのだろうか。やはり書くことである。ただし満足をしたり充足感に陥ったりしてはいけない。あなたが目指すものは既に決まっているのだ。プロ・デビューを目指すことでありそれに向かって一目散に駆け上がることである。そしてこのネットで徹底して習作に励むことであり、厳しい批判者に晒されることであり、その中で感性が研ぎ澄まされていくのを感じることであり、ありとあらゆる「文学賞」を狙うまでになることである。そしてやがて文学賞を勝ち取ることである。しかし言うが易しいことはわたしも承知している。だがこれだけは言えることがある。プロ・デビューが出来なかったという結末を迎えた場合、簡単ではあるが才能がなかったということ以外替わるべき言葉はない。愚民愚民で終わるかどうかはその研ぎ澄まされた感性を如何に表現として放つことが出来うるのかでしかない。それにはまず自分のスタイルを目指していくことから始まる。ひとつの言葉だけで小説は成り立ってはいない。そこには意識を源とする言語の持ちうる本来の力があるはずだからだ。その力が文体となって定立し、読むものにたしかな像領域を見せつけることになる。それが読者をその創り上げた世界に自然に誘うことになるのだ。観念だけでは自分の妄想のうちにしかいることが出来ない。つまり独りよがりの世界に住み着くことでしかない。衣装ダンスの引き出しにいくつもきれいな洋服を持っていても着るべき肉体がなかったら用は足さないのと同じである。見るものに服だけしか見せないのであればファッション雑誌を読んでいれば済むことになる。

 小説という手法はよく考えると奥が深い。在りもしない虚構の世界もリアルに在るかのごとく見せつけることも出来るということを忘れてはいけない。よく映画の宣伝文句にあるではないか。「映像不可能といわれた○○の原作の世界初の映像化」というふうに。まず言語を信ぜよ。そしてイマージュイマージュせよ。イマージュは必ず背後に思想を背負っている。そしてそれは非常にコンテンポラリーなものである。それが足りないからあなたの小説が小説として成り立たないだけなのだ。