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敵も愚民である

-愚民唯我独尊ごろくより-
 

2007-03-23

namgen20070323

[]スタイルとはなにか 9の6(その1) 00:01 スタイルとはなにか 9の6(その1) - 愚民の唄 を含むブックマーク はてなブックマーク - スタイルとはなにか 9の6(その1) - 愚民の唄 スタイルとはなにか 9の6(その1) - 愚民の唄 のブックマークコメント

『構成の原理』1

 ポォは異常ではあるが精神病ではない。それは一種の神経症である。

 これは精神分析学からポオを研究したことでも知られているフロイト学派であるマリー・ボナパルトMarie Bonaparte*1の言葉といわれている。だが、「精神分析的文学批評」についてはここでの任ではないことも言いたい。また、それと同時に我々は19世紀に数多く書かれた詩人の人生とそれを描いた伝記というものにも注意深く距離を置かなければならない。確かに自伝的エピソードや記述はその詩人のメタフォリカルな部分を表象していて、とかく分析をしたくなるものである。しかし、こと文学史的な、といえばいいのか、詩的表現の問題に考察を進めれば、今やろうとしていることは間違いなく古典の再評価に臨もうとしていることでもある。だが、その前に、つまりのところ、一種のパラダイム・シフトを経て現在的批評というものもあるということを忘れてはならない。それが後世における我々の立場でもあるだろう。ポオは小説や詩の他に詩論というべきものも書いている。『構成の原理』*2The Philosophy of Composition(1846年)がその代表的な詩論である。またこの『構成の原理』はポオの代表的な詩篇である『大鴉』The Ravenを例にとり自らがその詩篇の分析を行っていることでもよく知られているところである。その意味では読む者の興味が一層注がれる内容となっている。以下先人達のポオ分析等を手がかりにして『構成の原理』と『大鴉』についての関係に言及してみたい。『大鴉』は1845年、『構成の原理』は1846年に発表されていて、これが相互の年代関係であるということをまず考慮の範囲に入れておかなければならないと思う。つまり、『大鴉』の1年後に『構成の原理』が書かれているということになる。そしてそれは多分、想像するにはきわめて挑戦的な言辞に覆われていて、当時の人々を惑わせるに十分な内容となっている。まず彼はチャールズ・ディケンズ*3がゴドウィン*4の書いた『ケイレブ・ウィリアムズ』の構成的手法が既に結末が出来ていて、それから始まりを思いめぐらしたという説を取り上げて、ポオはプロットというものは書き始める前に既に出来ているのが当然であるとして、ポオにとっての構成の手法を述べ始めてゆく。多分普通に行われているだろうストーリーの組み立て方、たとえば、物語の大綱を作りあとは描写や対話、自註で埋めようとする手法の中に読み手に与える肝心の「効果」というものが考えられていないと主張し、独創的な効果こそが作品の命であるべきだというのである。そして創作の秘密というべきものの公開をどの作家も行っていないという点を挙げ、彼はこの秘密というべきものを『大鴉』を例にとって展開しようとする。

 ぼくはときどき思うのだが、どんな作家でもいい、自分の作品のうちどれか一つが完成するまでに辿った過程を逐一詳述する気になれば(というのは、それができれば)、たいへん興味深い雑誌論文が書かれるはずである。そうした論述がなぜ公刊されないのか、ぼくには何とも言えないが、恐らくは作家の虚栄心が他のどんな理由にもましてそのことと関係しているのであろう。たいていの作家、殊に詩人は、自分が一種の美しい狂気というか、忘我的直観で創作したと思われたがるものだし、また舞台裏、つまり、手は込んでいるが未だ定着していない生の思想とか、最後の瞬間まで補足しがたい真の目的とか、無数の片鱗は覗かせても全容を顕すまでには熟していない観念とか、手に負えないことに絶望して放棄してしまった熟しきった想像とか、最新の取捨、苦しい推敲、要するに車輪と歯車、場面転換の仕掛け、段梯子と奈落、雄鳥の羽毛、紅と付け黒子といった、九十九パーセントは文学的俳優の小道具であるものを、読者に覗き見されることに怖気をふるうものである。

 他方ぼくだって、結末に至るまでの過程をもう一遍辿ることができるということが、どんな作家にでも当て嵌まるわけではないことぐらい承知している。総じて連想は雑然と浮かんでくるものであって、同じく雑然と追っているうちに忘れてしまうものだ。

  -『構成の原理』篠田一士訳-

 一見、既存作家に対して嘲笑的にさえ思える始まりとも言えなくはないが、当時の時代的位相を考えると、ことの内容はともかく充分革命的でもあるアジテートだといわざるを得ないだろう。また当時アメリカで文学を志す者達にとってもこの論は受け入れられたのではないかと思える。それが19世紀の時代性というものの他、ポオがこの時おかれている職における立場も考慮に入れなければならないだろう。『故エドガー・ポオ全集』の編集者であるルーファス・グリズウオールドのスキャンダラスなアメリカ独特の宣伝的手法を思い出せばよい。売れなければ値打ちがないのであるという資本の論理というものを無視することは出来ないという現実である。悲しいことではあるが、なにも21世紀に終風氏が『物を書くということと、書いて食うということについては - finalventの日記』で書かれているところのものが今に始まったわけではないのである。ここでは今、書かざるを得ない立場、というものもあるということだと思えばいいだろう。そして更に冷水をかけるようなことにもなるのだが、20世紀に至ると、よりシニカルで尚かつ愛情に溢れるW・H・オーデン*5(トップ写真)の以下のような辛らつな言葉を思い起こすべきである。

 たとえポーがその批評家としての才を充分に発揮することができなかったとしても、それはもっぱらポーの不運のせいであって、彼自身のせいではない。彼の優れた批評の多くが広く読まれないのは、それがまったく読む気が起こらないような作品の書評のなかに埋もれているからである。彼がときおりオズグッド夫人のような二流詩人を過大に評価したり、イングリッシュ氏のような内容のない人物を排斥するのに時間とエネルギーを浪費したとしても、それは生来どんなに固い食物でも消化する胃袋を備えた批評家が周囲の事情のために文学的おかゆを当てがわれる破目になったことの必然的結果であった。第一級の批評家には第一級の重要性をおびた批評上の課題が必要なのであるが、彼はそれに恵まれなかったのである。ボードレールに与えられた主題-ドラクロワ、コンスタンチン・ギュイ、ワグナー-のことを考え、それからポーが書評のために当てがわれた本のことを思ってみるがいい。

『英国のメフィストフェレスたち、またはある総理大臣の告白』

『キリスト教徒の花屋』

『女性の高貴なおこない』

『テキサス史』

『ある悲運な紳士の生涯における浮き沈み』

『四季についての聖なる哲理』

『フランスにおける現存する著名人物素描』

『人生についての自由な鉛筆による一筆書き』

『アリス・デイ-韻文によるロマンス』

『ワコンダ-人生の達人』

『故ルクレシア・マリア・デイヴィドソンの詩的遺稿』

  -W・H・オーデン(八木敏雄訳)-

 強烈なアイロニーといわざるを得ない。先ほどの終風氏の指摘するところの今日的な21世紀の状況を鑑みることなく、19世紀に於いてやさえ、まさしくポオのおかれた国内での当時の位相を示している。アメリカは遥かヨーロッパに知的位相として及ばざるとしてとるのか『構成の原理』における創造の普遍性にすくい取られるものを見るのかである。まず我々は「スタイルとはなにか 9-5」においての「ポオの書簡」から読み取れるポオの生活の窮状を思い出さなくてはいけない。無論我々はその普遍たるべきものの姿をこの『構成の原理』で見ていかなければならないということになる。さらにW・H・オーデンはポオの評論についての特質として当時の知を擬装する愚民世界を意識せざざるを得なかったことも述べている。

ポーがあらゆる長い詩を原則として攻撃せざるをえなかったのは、『失楽園』や『批評に関するエッセッイ』に対しては不当のそしりを免れないが、偉い詩人になるためには長い詩を書き、詩を通じて教訓を垂れねばならぬとする詩人や一般大衆の先入観をゆるがすためであった。

  -W・H・オーデン(八木敏雄訳)-

 ここに於いて我々はその時代にポツンとして置かれたポオの姿を見るのである。いつの世もあるようにそこに尖った者の孤独な影を見ることになってゆく。

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-映画Marie Bonaparteより-

 -スタイルとはなにか 9の6(その2)に続く-

黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇 (岩波文庫)

黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇 (岩波文庫)

*1:マリー・ボナパルトMarie Bonaparteフロイト理論を早くからフランス語に翻訳した。フロイトの最後までを看取った女性としても特別な存在であり、その生涯はカトリーヌ・ドヌーヴ主演によって2004年にテレビ作品化されていて、80歳(フロイト)の男性と50歳(プリンセス・マリー)の女性のラブ・ストーリーとして描かれている。著書としては『クロノス・エロス・タナトス―時間・愛・死』Chronos,Eros,Thanatosなどがある。

*2:『構成の原理』篠田一士訳、The Philosophy of Composition「構成の哲学」と訳されている場合もある。この論では『構成の原理』とし、The Ravenを『大鴉』とした。

*3:チャールズ・ディケンズCharles John Huffam Dickens, 1812年2月7日 - 1870年6月9日は、イギリスのヴィクトリア朝を代表する小説家。自伝的要素が強い『デイヴィッド・コパフィールド』をはじめ『二都物語』、『大いなる遺産』などの作品がある。

*4:ウィリアム・ゴドウィンWilliam Godwin, 1756年3月3日-1836年4月7日。イギリスの無政府主義者、ジャーナリスト。小説『ケイレブ・ウィリアムズ Things as they are,or theadventures of Caleb Williams,1794年』と論文集『探求者』(1797年)、回想『メアリー・ウルストンクラーフトの思い出』などがある。

*5:ウィスタン・ヒュー・オーデンWystan Hugh Auden, 1907年2月21日 - 1973年9月29日詩人。英国ヨークに生まれる。1946年にアメリカ国籍を取得。ウイキペディアについてはここを参照。

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2007-03-22

namgen20070322

[]スタイルとはなにか 9の5 13:57 スタイルとはなにか 9の5 - 愚民の唄 を含むブックマーク はてなブックマーク - スタイルとはなにか 9の5 - 愚民の唄 スタイルとはなにか 9の5 - 愚民の唄 のブックマークコメント

ポオについての雑記

 ポオの生涯に於いて書かれた詩は全部で63編といわれていて、創元推理文庫の『ポオ詩と詩論』asin:448852205Xの中に福永武彦と入沢康夫の手によって翻訳されている。その翻訳の中身については別途その「文庫」を読んでいただければいいかと思う。そのほか原詩であるオリジナル・テクストについては『The Work of Edgar Allan Poe』でその殆どを読むことが出来るので一度原文を味わって貰うのも良いかと思う。また1831年以降(軍からの退役以降)のポオの年譜については『POE MUSEUM』を参照し、抜粋したものを以下に記したので参考にして欲しい。このサイトを読めばおわかりのようにポオの年譜と対応するように右サイドに通常史における特筆すべき事項も記してあるのでその時代性というものも頭に入れておけばそれなりの手助けにもなるだろうと思う。たとえばAbraham Lincoln*1や英国の詩人Alfred Tennyson*2と時代を同じくして生まれていることなど興味深い史実も分かるだろう。

【退役以降のポオの年譜】

1831

Expelled from West Point in February

Lives in Baltimore with aunt, Maria Clemm, and her daughter, Virginia

Poems: Second Edition contains “To Helen”

1833

MS. Found in a Bottle” (short story) wins literary prize; is published in Baltimore Saturday Visitor,

19 October

1834

John Allan dies, 27 March

1835

“Hans Pfaal” (first modern science fiction story) published in Richmond’s Southern Literary Messenger, March issue

Moves to Richmond in mid-summer to join Messenger editorial staff

Courts cousin, Virginia Clemm

Brings Virginia and her mother to Richmond

1836

Marries Virginia Clemm (age 13) in Richmond, 16 May

Increases Messenger circulation

1837

Resigns from Messenger

Moves to New York, January

1838

Moves to Philadelphia

The Narrative of Arthur Gordon Pym (novel)

1839

Becomes assistant editor of Burton’s Gentleman’s Magazine in June

The Conchologist’s First Book

(scientific textbook)

1840

Tales of the Grotesque and Arabesque (2 vols.) includes “The Fall of the House of Usher

Quarrels with editor of Burton’s, leaves in May

1841

Becomes editor of Graham’s Magazine in February

“Murders in the Rue Morgue”

(first modern detective story)

1842

Publishes stories:

“The Pit and the Pendulum”

“The Masque of the Red Death”

“The Mystery of Marie Rogêt”

Interviews Charles Dickens in March

1843

Publishes stories:

“The Tell-Tale Heart”

“The Gold Bug”

“The Black Cat

Publishes critical essay:

“The Rationale of Verse”

1844

Moves to New York City

Lectures on “The Poets and Poetry of America”

“The Balloon Hoax” (satirical story)

1845

Publishes “The Raven” in the New York Evening Mirror, 29 January

Publishes Tales in July

Publishes The Raven and Other Poems in November

1846

Moves to Fordham, New York

“The Cask of Amontillado” (story)

“The Philosophy of Composition” (critical essay)

several Poe stories translated, critically acclaimed in France

1847

Virginia Clemm Poe dies, 30 January

Poe falls ill

Completes “Ulalume” (poem)

1848

Eureka (philosophical essay)

Reads “The Poetic Principle” (critical essay) to audience of 1,800

Writes “The Bells” (poem)

1849

In Richmond to lecture and see friends in mid-summer

Engaged to widow Sarah Elmira (Royster) Shelton, former fiancée

Leaves Richmond for New York, 27 September

Found delirious in Baltimore, 3 October

Dies, 7 October

Poems appear posthumously:

“The Bells”

“Annabel Lee”

“El Dorado”

 -「Poe's Works and TImeline | Edgar Allan Poe Museum」より参照-

ポオの書簡など(坂本和男訳より)

 また、ポオの手紙というべきものも個人的な抜粋ではあるが転載した。

「ポオ書簡」の抜粋

【ジョン・ニール宛-1829年ボルチモアにて-】

 私は若くて-まだ二十歳にもなっていませんが-すべて美を深く礼賛する者が詩人であるなら、まさに詩人です。そしてごく普通の意味での詩人になりたいと思っているのです。私の想像に浮かぶ観念の半分でも表現できるなら、この世のすべてをなげうってもいいのです。

 希望と若さに満ちているポオを見ることが出来るが、詩人の人生はそんなに甘くはなかった。自ら詩を書くと共に雑誌を発刊する情熱は実を結ぶとは言えず芸術の切り売りをするしかなかったのである。やがて生活のために妻ヴァージニア(トップ肖像写真)と共に1844年ポオが35歳の時にニューヨークに転居する。

【エバート・A・ダイキング宛-1846年-】

拝啓

”特殊な事情”がありますので、三月一日までに小説集をもう一冊出版していただきたいと切望しております。そのようにお取り計らい願うわけにに参りませんでしょうか。今度お送りする小説集の著作権料として、総額で五十ドルほどワイリイさんからいただければ有難いのですが。  

 ある意味ではポオの人生は貧乏との戦いであった。 

【ヴァージニア・ポオ宛-1846年6月12日-】

 いとしい人、愛するヴァージニア、今夜ぼくがおまえのそばにおれないわけは、母さんが説明してくれるだろう。インタビューの約束があるのだけど、それはぼくのために、愛するおまえのために、また母さんのためにも、何か相当に役立つものと信じている。希望にあふれ、元気を出して、もう少しの間辛抱しておくれ-この前ひどくがっくりした時、もしおまえがいてくれなかったらぼくの勇気はくじけてしまっていただろう。この気に入らない、不満足な、骨折り甲斐のない人生と戦うために、愛するかわいい妻、おまえだけがぼくの最も大きな唯一の励ましなのだ。明日の午後にはおまえのそばに行けるだろうから、会うまで心安らかにしておくれ。おまえの最後の言葉と熱烈なお祈りとを、ぼくは愛情をこめて胸にきざんでおくつもりだ。

 よく眠れますように、また、深い愛を捧げるとぼくと一緒に安らかな夏の日々が過ごせますように。

 この翌年1847年1月30日、病床の妻ヴァージニア死去。

【マライヤ・クレム夫人宛-1949年9月18日-】

(前略)

ぼくはノーフォークで講演しましたが、マジソンハウスの勘定を払ってあとに二ドルと少し残りました。聴衆は相当程度の高い人たちでしたが、ノーフォークは小さな町ですし、同じ晩に二つ催しがあったのです。来週月曜にまたここで講演しますが、大勢聞きに来るだろうと期待しています。火曜日にはラウド夫人の詩を見てあげるためにフィラデルフィアへ出かけて-多分木曜日にはニューヨークへ発てるでしょう。

(中略)

ぼくはまだあなたにただの一ドルだって送ってあげれません-でも元気でいてください-ぼくたちの苦労もほとんどもうお終いになるでしょう。

(後略)

 この年10月3日にボルチモアの路上で意識不明となって倒れているポオが発見され、10月7日永眠する。まさしく貧乏底なしの生活は「お終い」になったのである。

 以上の抜粋はポオの置かれた生活や背景を窺うことが出来るものを取り上げた。

スタイルとはなにか 9の6に続く

*1:エイブラハム・リンカーン:1809年2月12日 - 1865年4月15日は、第16代アメリカ合衆国大統領。初の共和党所属大統領。彼の大統領就任はアメリカ合衆国を二分し、南北戦争に結びついた。アメリカ合衆国とアメリカ連合国の戦いであるAmerican Civil War, 1861年-1865年は文字通りの「総力戦」だった。

*2:アルフレッド・テニソン1809年 - 1892年、イギリスの桂冠詩人。『Poems by Alfred Tennyson』、『イノック・アーデン Enoch Arden』等がある。

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2007-03-19

[]intermission 22:54 intermission - 愚民の唄 を含むブックマーク はてなブックマーク - intermission - 愚民の唄 intermission - 愚民の唄 のブックマークコメント

 ここ数日、資料として本ばかり読んでいる。こんな行為はここ最近無かった。記憶の減衰に襲われているんじゃないかという私自身の己に対する疑惑の裏付けのために読み直す書籍類が多い。読むものも系統立てられると言えるほどのものではなく、思いついたところから始めているといった具合だ。仏典関係は比較的よく憶えているのだが、聖書関係はまるで歯抜け状態になっている。自分の日常の中で遠のいてゆくのだろうか。もっとも家を出るときに殆ど書籍というものを置いてきてしまっていることは何度も書いている通りである。語学力ていうか、オリジナル・テクスト関係に接すると、それが著しく低下していることがわかる。それにも増して視力の老化にも悩まされていて虫眼鏡がないと読めなくなってきている。年はとりたくないものよ。

 夕方早めに家へ帰り、しばらくすると下の写真のような具合になった。笑うべきか悲しむべきか、当の本人がすっかり忘れてしまっていた。というわけで本日をもって59歳になりました。次女からもメールが来ていて父である私のことを忘れないでいてくれたことが嬉しかった。

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お祝い酒も届いていた。

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「百年の孤独」と数量限定「大吟醸*1」、2本とも貴重な種類のものだ。大切に呑もうと思う。また、お祝いメールも頂いた。ありがとうございます。返事に代えてここでお礼申し上げます。

*1:先日id:agricoさんに贈ったものだ。こちらにももう一本届いたのでagricoさんも保存なんかしないでバァーッと呑んでください。私も呑んでみます。

BOBOBOBOBOBO2007/03/20 00:18おめでとうございます。
「百年の孤独」って、麦焼酎があるんですか?
横文字が書いてありますがガルシア=マルケスの小説と関係あるのですかね?(ちなみに私は読んでません)

h_cath_cat2007/03/20 03:21お誕生日おめでとうございます!経験的に申しますと上等の酒ってやつは独りで味わったのち誰かと歓びを分かち合いたくなるもの…じゃないでしょうか!“スタイル”を終えるまでに富美菊は残っていないとして、百年は二本指分っくらいは残しておいて下されば幸いです!

namgennamgen2007/03/20 14:15李参堂さん、ありがとう。
たしかに、ネットではこの焼酎の由来がマルケスから来ているみたいに書いてありますが、オーナーはそうだとは言っていませんね。実物には下の英文が見えます。JAZZ好きな者の殆どが知っているエリック・ドルフィの「ラスト・デイト」で語る彼の最後の言葉です。高鍋で開かれるジャズ・フェステバルの有力な後援者になっているところから見ると相当の愛好家なのだと思います。
When you hear music, after it's over, it's gone in the air
You can never captune it again
- Erick Dolphy -
琥珀色の薫り高い焼酎です。

namgennamgen2007/03/20 14:23h_catさん、どうも、ありがとう。
お察しの通り、大吟醸の方は昨夜呑んでしまいました。山田錦と立山湧水から造形された辛口の酒でした。肴を選ぶかも知れませんね。『百年の孤独』は取っておきます。こちらの酒も肴を選びますから、今度割烹「田ばた」へ持ち込みレアの飛騨牛と共に呑みましょう。

MM2007/03/20 17:27おめでとうございます。

agricoagrico2007/03/20 18:38誕生日おめでとうございます。59歳ですか。その歳になった時、自分はどんなになってるんだろうとふと思いを馳せました。大事にしてあと30年は生きてください。
いただいた富美菊大吟醸、先日タラの刺身でいただきました。あまりの香りのよさに別世界に迷い込んだ心地です。日頃飲んでる酒とは対照的なほど爽やかで、極楽の味とはこんなものだろうかなと。
一度に飲んでしまうのがあまりに惜しいので3分の1ほどしか飲みませんでした。近く次の魚を探す予定です。特別な酒には特別な肴が欲しいなと思ってしまいます。

deepred_9deepred_92007/03/21 00:32遅くなりましたがお誕生日おめでとうございます。南無さんにとって、この一年も、素敵な年でありますように。

namgennamgen2007/03/21 10:40Mさん、ありがとうございます。
ついにもうすぐ60代の大台に目前ということになりました。実に感慨深いと思っております。この年代にさしかかってくるとブロガーでは趣味で書くみたいな人が多く、よってたかって、ウヨだとかサヨだ、と、とかく団塊ジジィとか耄碌ジジィとか糾弾されてしまいます(苦笑)まだしばらく生きているつもりですので愚民共に逆らっていこうと思っております。

namgennamgen2007/03/21 10:47agricoさん、どもです。
越後でもなく加賀でもない味でした。いわば少し荒々しい趣のある富美菊でした。漬け物に合いますよ。
30年は無理というものです。仏智によって生かされていると思っています。世間では罰当たりの南無となっていますが、これでもれっきとした真宗門徒となっていますからね。無論門徒衆や僧等から白い目で見られているところが不徳の致すところです。

namgennamgen2007/03/21 10:51deepred_9 さん、どもです。
最近、迷っていませんか?多少気になっています。書くことを目指す者は書くことに依ってしか答えを得ることが出来ないのは自明ということですよ。思い切ってジャンプすることが今のあなたに必要であると思えるのだが。
とにかく、ありがとう。

heiminheimin2007/03/23 00:31耄碌爺の南無さん誕生日おめでとうございます。そのうち金属バット片手に御挨拶に伺おうと思っておりますので、いつまでも七色に輝く華麗なるモテ・ブロガー平民金子にとっての、にくらしい糞親父のような存在でいて下さい。愚爺へ。愛を込めて。

namgennamgen2007/03/23 00:38モテの平民金子さん、ども、ありがとうございます。
日頃からヴァヴァーという種に憎まれておりますので対策は万全です。金属ヘルメット被って上京するつもりでおりますのでご安心ください。ブクロの居酒屋を早くも期待に満ちて遠い目で見ております。あ、不味いところ駄目だかんネ。

ao_lazwardao_lazward2007/03/26 00:38南無さん、お誕生日おめでとうございます。また充実の一年をお過ごしくださいませ。
ホールケーキって、私の中では特別のものです。最近は両親の誕生日に買って帰るようにしています。直径10㎝のホールケーキに長さ10㎝の細いキャンドルを立てるのでバランスは悪いですが、気持ちは伝わるかと(笑)

namgennamgen2007/03/30 20:30ども、ありがとうございます。
返事遅れて申し訳ない。
そろそろ、テーマを絞りながら一歩前に出ましょう。

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2007-03-12

namgen20070312

[]スタイルとはなにか 9の4(補完2) 14:56 スタイルとはなにか 9の4(補完2) - 愚民の唄 を含むブックマーク はてなブックマーク - スタイルとはなにか 9の4(補完2) - 愚民の唄 スタイルとはなにか 9の4(補完2) - 愚民の唄 のブックマークコメント

青年期についてのポオ-補完2-

 ポオがヴァージニア大学での学業の継続を養父アランによって絶たれた後、養父との関係はポオの哀願によっても修復されることはなかった。また債権者から追われる身であったポオにとって取るべき道は偽名エドガー・A・ペリーを名乗り合衆国陸軍の一兵卒として逃げ込むしかなかったのである。ポオの1827年18歳の時から翌年1829年特務曹長で除隊するまでの間で特筆すべき事項は、幸運にも入隊直前に出版を引き受けてくれる印刷業者と出会い1929年に「匿名」で処女詩集を出せたことである。佐伯彰一は創元社版ポオ全集に寄せての「解説」でボストンのインデペンデント要塞のなかで新兵教育を受けている最中に詩集が出来上がったとしているので橋田久康との年譜との比較で大凡二年のズレが出ている。また橋田久康の「ポー年譜」にはこの処女詩集を『タマレーンその他』Tamerlane and Other Poemsとしか書いてないので1927年から1929年までに書いた詩の全てが入っているのかどうかは分からない。ちなみに、1927年作と呼ばれているものは「タマレーン(チムール大帝)」Tamerlane*1から「あのみずうみ、――に」The lake:To――までの10編、1929年作は「ソネット――科学によせる」Sonnet――To Scienceから「妖精の国」Fairy-Landの7編である。また借金まみれで軍に逃げたポオが『詩集』を出すなどは普通考えれないことであるからして、これにも死の直前だった心優しい養母フランシス夫人の援助の影が見え隠れする。ポオは1829年(20歳)の時、陸軍を一旦除隊するが今度はウエストポイントの陸軍士官学校への入学申請を出す。これもまだ借金から逃げようと思っているからではないかと推測できる。そして許可を待つ間ポオは実父方の叔母でボルチモア在住のマライヤ・クレム夫人を頼り夫人の家に逗留するのである。これについてはポオ自身が幼くして死に別れた実母の面影を慕って夫人を頼ったとボードレールは書いているが重要なことはそこに於いて夫人の娘でありポオの従妹であり後に14歳でポオの幼妻となった当時6歳、7歳頃のヴァージニアと出会っていることであろうと思う。またこの年12月に詩集『アル・アーラーフ、タマレーンほか小詩篇数編』Al Aaraaf,Tamerlane,and Minor Poemsを出版する。1831年(22歳)詩作を続けるために故意に士官学校の規律を乱し退学となり、本格的な詩作活動に向き合うこととなる。また士官学校を放校後ポオはニューヨークに赴き、第三詩集『ポオ詩集』*2の準備に取りかかり、そのあとまたもやクレム夫人の家に身を寄せることになった。ヴァージニアは八歳。

 ポオとマライヤ・クレム夫人についてはボードレールが一種の哀れみと感動を踏まえながら熱い思いで語っていることが印象的である。またそれはボードレールをして感動させるかのように己と幾重にも重なるかのごとき愛に溢れた讃辞となっている。ポオと共に苦労と不幸を背負ったこの婦人についてボードレールは忍びないものもあったのだろうと思う。以下のボードレールからの引用は長いクレム夫人への讃辞の締めくくりの部分である。

この婦人は、私には、偉大でありまた老婦人というより以上のものであったように見える。とりかえしのつかぬ打撃をうけていながら、彼女は自分にとってすべてであった故人の評判のことしかかんがえず、また彼女を満足させるためには彼が天才であったというだけでは事たりず、彼が忠実で愛情にみちた男であったことが世に知られねばならなかったのである。至高の天からの一すじの光によって点ぜられたかがり火であり暖炉であるこの母親は、献身とかヒロイズムとか、そしてすべて義務以上の物事についてはあまりにも無関心であるわが民族に、手本として与えられたものであったことはあきらかである。

 -「エドガー・ポー、その生涯と作品」シャルル・ピエール・ボードレール(平井啓之訳)-

 ガストン・バシュラール*3が幼くして実母を亡くしたポオをいみじくも「母に対する愛着と死の妄執の二重の徴を刻印した天才」と呼んだわけも今後本格的な作家活動をしてゆくポオの軌跡の中でおいおい明らかになってゆくであろう。

その5 に続く

*1:入沢康夫訳では原題でも使われているタマレーンがチムール大帝の別称であるところから詩題をチムール大帝としている。

*2:この詩集は既発表のものも含め11篇で序には最初の詩篇と書かれる。-橋田久康「ポオ年譜」-より。これは第一詩集が借金持ちの身分を隠すために匿名であったからだとすると、当初担いだその借金についてはこの頃解決していたのかも知れない。

*3:ガストン・バシュラールGaston Bashelard:1884-1962年。フランスの哲学者。ソルボンヌ大学教授。科学史、科学哲学専攻。『大地と休息の夢想』La Terre et les rêveries du repos、『空間の詩学』La Poétique de l'espaceなどの著書がある。

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2007-03-09

namgen20070309

[]スタイルとはなにか 9の4(補完1) 14:38 スタイルとはなにか 9の4(補完1) - 愚民の唄 を含むブックマーク はてなブックマーク - スタイルとはなにか 9の4(補完1) - 愚民の唄 スタイルとはなにか 9の4(補完1) - 愚民の唄 のブックマークコメント

青年期についてのポオ-補完1-

 話をいったん「その1」で述べた「エドガー・アラン・ポオ-の出自について」の項の続きについて補完的に論を進めてみたい。またこのような補完をするのは詩人ポオなる形成の道を探るという意味でも必要と認めたからである。

 ポオがヴァージニア大学に入学し博打等に手を染め養父に連れ戻されたあと、養父から逃れるようにして軍に志願したことを述べたが、そのことについて若干の背景状況を説明しておきたい。一般的な年譜等にはポオの養父たるジョン・アランは裕福であったと簡単に述べられている事が多い。これらの典拠はここで何度も取りあげているボードレールの『エドガー・ポー、その生涯と作品』によるところから来ているとみられる。現にボードレールはポオが養父に引き取られるいきさつの部分で以下のように書いている。

その都市の富裕な商人であったアラン氏が天性の魅力にみちた態度にめぐまれたこの可愛い不幸な子に夢中になり、それに彼には子供がなかったので、養子にした。それで子供はそれ以来エドガー・アラン・ポオと呼ばれるようになった。こうして彼は何の不自由もなく、また性格にも誇りたかい気強さというものをあたえる恒産への当然の期待のうちに育てられた。

(中略)

彼は1822年に(イギリスから)リッチモンドにかえり、、当時最良の教師たちの指導のもとで、アメリカでの勉強を続けた。

 -「エドガー・ポー、その生涯と作品」ボードレール(平井啓之訳)-

 訳者である平井啓之は訳註のなかでこの部分にやんわりと訂正の註釈を入れている。ポオを引き取った当時の養父ジョン・アランは必ずしも裕福でなかったと云うこと、後の1825年頃に大金持ちの伯父の遺産を相続して町有数の財産家になったこと、ポオの愛くるしさに夢中になったのはアランの妻フランシス・バレンタインであることなどである。ボードレールが上記書で様々な誤謬を犯すのは本論「その3」にも書いたようにボードレールが参考底本としている『故エドガー・ポオ全集』の編集者であるルーファス・グリズウオールドの「メムア」を鵜呑みにしているところがあるからである。ヴァージニア大学を放蕩と博打のあげく、さも放校のように書かれてしまうのもグリズウオールドの作為にみちた中傷であり、もしかすると編集者たる権限で「全集」をスキャンダラスな話題の中で売り込もうとする策略を見落とすからだとも云える。平井啓之はその訳註の中で以下のように書いていてその方に説得力があると思うが自然である。

ポオが放校された原因をポオ自身の不行跡とすることは事実と反し、同大学の記録文書の中にはポオに対する戒告その他の形跡が全く見あたらない。彼が大学を去った原因はむしろ養父アランの無理解によって送金が断たれたことによる、とするのが今日の定説である。

 -平井啓之の訳註より-

 まあ、はっきり言って養父アランはドケチで文学なんぞクソくらえの人種であったことは間違いが無く、夢を追うようなポオの性格自体が気に入らなかったことは大凡のちのちのポオ研究家達によってもよく言われている部分である。ポオの詩の優れた翻訳者であり詩人である加島祥造*1 は「ポー詩集」の解説で養父アランとポオとの軋轢のことを相当辛辣に書いている。

養父アランはスコットランド系の人であった。一般にスコットランド人はケチで知られている。養父はポーに一定額の費用(110ドル)しか与えなかったが、当時の大学は裕福な家の師弟ばかり集まったから、見栄からも多額の費用が必要だ。ポーはたちまち借金をこしらえてしまい、それを埋めようとカードの賭博をやってさらに大きな穴をあけてしまう。

 -「ポー詩集」加島祥造の解説より引用-

 結果としてポオの抱えた博打の穴はどうにもならなくなり借金から逃走するために軍に入ったと云うところが真相に近いようである。余談であるがアラン夫人であるフランシスからはポオは過分に愛されていて大学生活の仕送りの補完をそれとなくして貰っていたと云うことも伝えられている。守銭奴の妻は天使であったと云うことである。しかし、その夫人も1829年2月28日に亡くなりついにポオは唯一の庇護者も失ってしまうことになるのだ。これは正しくポオが若くして貧苦に苦しむ第一歩が始まったということに他ならない。貧乏はかようにして不幸になるのかの軌跡を我々が見てゆくことになるかと思う。

※The Raven Society-ヴァージニア大学に於いてのポオの寄宿生活について-

 Student Council Server

 現在も当時の寄宿舎が残っておりポオが居た部屋が保存され見学できるようになっている。下の写真はポオが居た部屋と云うことである。

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その4「青年期についてのポオ-補完2-」 に続く

*1:加島 祥造かじましょうぞう. 1923. 東京生まれ 早稲田大学・英文科卒業 カリフォルニア州クレアモント大学・大学院留学 信州大学、横浜国立大学、青山学院女子短期大学で英 文学を教えた後、現在信州伊那谷に住む。「荒地」に参加する。英米文学者、詩人、画家. 老子の「タオ」を日本語で出版。

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2007-03-07

namgen20070307

[]スタイルとはなにか 9の3 17:45 スタイルとはなにか 9の3 - 愚民の唄 を含むブックマーク はてなブックマーク - スタイルとはなにか 9の3 - 愚民の唄 スタイルとはなにか 9の3 - 愚民の唄 のブックマークコメント

ポオは、たとえ狂人だったとしても、紳士だった

 上記はAllen Tate*1が書いたJ・W・クラッチの言葉である。

 ポオは1849年10月7日バルチモアで大統領選挙投票のさなか酒場の前にて意識不明で倒れているのを発見され変死を遂げる。その翌年1850年ニューヨークの出版社レッドフィールド社から『故エドガー・ポオ全集』が刊行される。ボードレールもこの全集を底本としてポオの翻訳に努めたことはよく知られているところでもある。ボードレールが書いた『エドガー・ポー、その生涯と作品』(Poe, Edgar Allan - Sa vie et ses oeuvres)は彼自身がテクストを何度か書き直し、加筆しながら今日に伝わっていることはその仏版翻訳者の平井啓之のあとがきや訳註を読めばわかる。また、ボードレールがポオに抱いていた決意は並々の思いではなく、ポオがフランス象徴主義サンボリスムに与えた影響は大きく、やがてそれは『悪の華』に結実化されてゆくことにもなった。そのあたりのことを平井啓之はその『エドガー・ポー、その生涯と作品』のあとがきで述べている。

ボードレールの文学的生涯にとって、ポオとのかかわり合いはふかくかつながい因縁をもっていた。彼が1847年にイザベル・ムーニエ女史*2の訳業によってはじめて「黒猫」を読み、その翌年「催眠術下の啓示」を訳出して以来、1865年死に先立つ二年前に『異様でまじめな物語』によって、ポオの訳業に終止符をうつまでの17年間は、ほとんどボードレールの文学生活の大部分であったと言い得るであろうし、しかもその間ポオはボードレールの関心の外に去ったことは、ほとんど一日もなかったのではないだろうか。

(中略)

ボードレールはポオのほとんど全著作をフランス語に移し入れることによって、リラダンやマラルメをこえてはるかにヴァレリーにおよぶフランス象徴主義の詩的世界を支配する原理を、自国の文壇に同舟することを得たのである。

 では、なぜボードレールはポオを紹介するにあたって『エドガー・ポー、その生涯と作品』を何度も書き直さなければならなかったかと云うことになるのだが、このことについてはポオの描いた作品とは別の視点も無視することは出来ないとおもえる。フランス人たるボードレールにとっては英文テクストを通してしかポオの作品や人となりを想像するしかなく誤謬や誤訳が伴うと云うこともあったからであり、そういうことは、とかく文学の世界にはありがちではあるが、米国本国に於いてポオの死後再編纂された『故エドガー・ポオ全集』に基づくしかなかったのである。ところがこの全集の編集者であるルーファス・グリズウオールドRufus W.Griswold自体の書いたものが様々な誤解やスキャンダルを招いていくことにもなったのである。とりわけボードレールは初稿に新たなページを付け加えざるを得なくなり、ついにはグリズウオールドのことを独善的吸血鬼とまでに罵倒している。またこれには理由があった。ポオと同時代の文壇ジャーナリストであったグリズウオールドはポオが編集責任者としていたグラハム・マガジン社(Graham's Magazine)の後を継いだ編集者であり、ポオが死の直前に自分の文学作品の管理一切を任せた男でもあった。ところがこの男グリズウオールドはポオの死の二日後に「ニューヨーク・トリビューン紙」*3にルドヴィックという匿名を使ってポオの人格、性格を毀損する文を載せたのである。

エドガー・アラン・ポオが一昨日死んだ・・・だが彼の死をいたむ人はほとんどないであろう。なぜなら彼には読者はあったが、友人はなきにひとしかったから・・・。-1849年10月9日号-

 実に驚くばかりであるが、ポオが死の直前自分の伝記的な部分に対する執筆依頼をしている、やはり同時代の文壇ジャーナリストであるN・P・Willis N・P・ウイリスは10月20日の「ホーム・ジャーナル」誌上にルドヴィック文章の不当を正す意味での反論を載せた。またグラハム・マガジンの社主ジョージ・グラハム氏もグラハム・マガジン誌上に「ポオの擁護」と題する文を掲載しルドヴィック文章を悪質で嘘であるという論陣を張った。しかしグリズウオールドはこれで矛を収めるような男ではなかった。グリズウオールドは1850年に出版された『故エドガー・ポオ全集』の冒頭に「伝記(メムア)」Memoir of the Authorを執筆しより一層の人格非難(無論作品非難ではないところがミソ)を倍増したかのように掲載したのであった。またこの個人的な誹謗の原因はいまだに分かっていない。もっともアレン・テイトは「Our Cousin, Mr. Poe」のなかでJ・W・クラッチJoseph Wood Krutch*4がポオのインポ説を述べていることに触れているので、それよかいいのかも知れない。いずれにしてもポオにはそれなりの強烈な個性が光っていたということである。

Ravenとはなにか

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 日本の漢字では「鴉」もしくは「烏」と書く。生物学的な分類に拠れば嘴太鴉(はしぶとがらす学名:Corvus macrorhynchos)、嘴細鴉(はしぼそがらす学名:Corvus corone)と呼ばれているものが我々からするとカラス(以下カラスと書く)と呼ばれる代表格であり、本土以外の対馬や南西諸島などに、より小型の亜種が三種認められている。ウイキペディアではやはりポオとカラスの関係に立ち入っているのに興味が持たれる。

日本語でいう「鴉」は、普通は留鳥のハシブトガラスとハシボソガラスの二種をさす。 渡り鳥で冬飛来する鴉は、北海道にワタリガラス、西日本にミヤマガラスである。迷鳥を含めると、7種が記録されている。日常語ではこれら全身が黒い鴉を通常は区別することはない。なおハシボソガラスの分布はユーラシアに広く生息するが、ハシブトガラスの分布は東アジアと南アジアに限られる。ヨーロッパでは、ハシボソガラス、ワタリガラス(raven)、ミヤマガラス(rook)が一般的である。英語ではこのように、crow, raven, rook は日常語レベルで別の鳥とみなしていることが特徴である。文化的にもそれぞれが違うイメージを付与されている。英語のそれらを和訳する際(特に文学作品)には、ハシボソガラス等を指す crow と区別して、raven を「大ガラス」と訳すことがある。エドガー・アラン・ポーの詩「大鴉」はその一例である。ただし、近年ではraven を「ワタリガラス」と訳したり、そのまま音読で記す場合も多い。

 -東西の鴉(ウイキ)-

 これによるとほかに渡り鳥的な種もいることが分かる。さらにウイキペディアによれば日本名渡鴉ワタリガラスはハシブトガラスよりも一回り大きくユーラシア大陸全域、北米大陸に渡って広く分布し、日本では北海道地域*5に見られる。学名:Corvus corax英語名ではCommon Ravenもしくは単にRavenともいう。またそのほか英語の「レイヴン」には、「黒い髪の色」の意味がある。日本語の「烏の濡れ羽色」と同じ。ギリシア神話では太陽神アポロンに仕え色は白く言葉も話す事が出来る非常に賢いカラスだったがアポロンの怒りに触れて炎に焼かれ黒く焦げ、声も潰れたとある。また北欧神話ではオーディン(戦争と死を司る神)の斥侯として、フギン(=思考)とムニン(=記憶)の二匹のワタリガラスが登場、イギリスでは*6チャールズ2世の勅令で、最低6羽のワタリガラスがロンドン塔で飼育されており、「ロンドン塔からワタリガラスがいなくなるとイギリスは滅びる」というジンクスがある。2006年には鳥インフルエンザから保護するためにロンドン塔から一時避難させられた。ビーフィーター(Beefeater)の中には、ワタリガラスの世話をする「レイヴンマスター」という役職があるということである。勿論日本に於いて、古事記によるところの八咫烏(やたがらす、やたのからす)と呼称されているカラス*7は居る。

 またついでながらウイキには以下のようなカラスについてのイメージについて書いてあるのだがカラスと黒猫を同列に置いて書くなど、もしかするとポオの作品イメージから来る影響も考えられないでもないだろう。

黒い姿から、『カラスが鳴くと人が死ぬ』、『カラスが集まる場所では死人が出る』等と言われ、不吉であると信じる人もあるが、カラスの実際の羽色は、「烏の濡羽色(からすのぬればいろ)」という表現もある通り、深みのあるつややかな濃紫色である(「烏の濡羽色」は、黒く青みのあるつややかな色の名前で、特に女性の美しい黒髪の形容に使われる事が多い。烏羽(からすば)色、烏羽とも)。ファンタジー小説やゲームでは、黒猫などと並んで魔法使いの使い魔とされる事が多い。賢さと不吉なイメージからであろう。

 -イメージ(ウイキ)-

 このようにしてカラスは人間にとって何ものかである意味が持たされていることが理解できるだろう。

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 また、更にカラスについての役割をキリスト者の世界という限定で見ればなにも不吉というものばかりでもなく、旧約の「創世記」(ノアの洪水:旧約聖書「創世記」8章6-7)に於いての大洪水から40日後の世界の偵察の任務を帯びたカラスについて描き『さらに四十日たったとき、ノアはさきにつくっておいた箱船の窓を開いて洪水後初めて鴉を放した。すると鴉は出ていって、水が地上からひあがるまで、あちらこちらと飛びまわっていた。』とあり、足の裏を休ませるところが無く、すぐ戻ってきた鳩との区別がある。その7日後再び放たれた鳩は口にオリーブの若葉をくわえて戻って来る、さらにその7日後に放たれた鳩は彼の元には戻ってこなかった。水が地上から引いたと言うことである。もっとも、この時最初から戻ってこなかったカラスの行動に対する解釈は体力抜群以外別段不審なものはないと思うのだけれども、これも自分なりの解釈にしか過ぎず、ノアを裏切って戻らなかったとする、もっぱら不服従の象徴であるとする説もあるようだ。King James Versionによるとこの部分は以下のようにしか書いてない。

And he sent forth a raven, which went forth to and fro, until the waters were dried up from off the earth. -Genesis 8。

 ここのどこを読み解けば不服従disobedienceとなるのかは分からない。このあたりについては別途「鴉の不服従」を参考にして貰えればいいだろう。また「列王記」(エリヤ:旧約聖書「列王記Ⅰ」第17章4-6)に於いては予言者エリヤに神から遣わされたカラスが登場してくる。異教神を祭るイスラエル王国のアハブ王とその妃イザベルの対立者としてのエリヤは神の命を受けてイスラエル王国の首都サマリヤに行き王と妃の前で『イスラエルの神の名によって伝える。今後二、三年、イスラエルに雨が一滴も降らない。私が雨が降ると告げる時まで』と偶像崇拝による彼らへの神の罰を宣言して立ち去る。その後、王の追っ手から隠れるため神に導かれてヨルダン川の支流ケリテ川に潜む。その時エリヤに朝、夕、パンや肉を運びエリヤを飢餓から守ったのは神が遣わされた数羽のカラスであった。神がカラスに命じたと書かれている。King James Versionでは以下のように書いてある。

I have commanded the ravens to feed thee there. -1 Kings, chapter 17

 このようにカラス*8にも役割は与えられている。だが、いつの間にかカラスは古代に於いての神の使いを越え近代にはその立場が逆転し不吉なものとしてのイメージを以て語られることになってゆく。ではここで位相を少し変えてみた場合のカラスはどのように見られているのかと言うことになればそれなりの愚民世界に立ち入ることになってゆくかと思う。またそれは一種の神秘と幻想に覆われている、まさに侮蔑すべき民衆の持つべき畏れの世界と重ね合うことにもなる。ではその言うところのオカルトっぽい世界ではどう書かれているのかを見てみることにする。

「鴉のノアへの不服従」

The raven, too, is traditionally portentous, and is sometimes called the Devil’s Bird. Its plumage is said to have been changed from white to black because of its disobedience in not returning when Noah set it free to find dry land after the Great Flood.

渡り鴉は伝統的に凶兆を表し、時々悪魔の使いの鳥と呼ばれていました。 ノアの(箱船における)大洪水の後に水の引けた陸地を見つけるためにノアが鴉を放つが、命令に背き戻らないので羽根を白から黒に変えられたと言われています。-南無訳-

 -http://www.hauntedamericatours.com/occult/BESTIARY/

 旧約聖書「創世記」におけるノアとカラスについての解釈をこのように「裏切りdisobedience」と述べていて、これについての根拠の有るか無しかは別としてもアメリカ国民の全てとは言えないところの部分でこのような解釈が成されていると思えばいいだろう。また、カラスそのものについても以下のようにも述べている。

「鴉と死のイメージ」

The raven’s ability to find nourishment among the corpses of the dead was viewed as something supernatural in itself and forever linked it with the process of death and rebirth. The raven is the emblem of the etheric or supernatural self and ravens are considered inimical supernatural beings in their ability to resist possession by demonic entities, earning them a unique distinction among the so-called “servants of the Devil.”

カラスには人間の死体を食い物にして、それを死と再生というものに繋いでゆく超自然的な能力が見られます。カラスは超自然的な精気を表す象徴であり、魔力を持った(人間にとって)非友好的な存在であり、まさに悪魔の使いとしても特別な能力を発揮する存在だといえる。-南無訳-

 まさに、「旧約聖書」で見られるような人間に役に立つ生き物ではなく、要するに不吉さのシンボルでもあり生きている人間に対して決して愛らしくないばかりではなく非友好的な悪魔の使いだと見る向きが多いと言うことである。日本に於いても怪談映画やホラー映画等で意味の有りそうな墓地ではどういうわけか墓石の上や近辺の木々の枝でカラスが止まって啼くというシーンがないわけではない。つまりのところカラスには超自然で且つ邪悪な特殊能力があるというわけだと思えばいいだろう。

 -その4 に続く

悪の華 (新潮文庫)

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巴里の憂鬱 (新潮文庫)

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旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

*1:アレン・テート(1899-1979):アメリカ南部の詩人、批評家。20世紀前半アメリカ南部で興った文学運動、いわゆる「新批評」の論客。「南部軍の死者に捧げるオード」Ode to the Confederate Dead、「地中海」The Mediterraneanなどの詩がある。「わが従兄ポオ氏」Our Cousin, Mr. Poeを書いている

*2:イザベル・ムーニエIsabelle Meunier参照:「ポオ仏訳・新聞雑誌掲載リスト」

*3:ニューヨーク・トリビューン:1841年には、ホレス・グリーリーが「ニューヨーク・トリビューン」紙を創刊し、同紙はまもなく国内で最も大きな影響力を持つ新聞となった。

*4:J・W・クラッチ:Krutch, Joseph Wood (krooch) , 1893–1970,著作としては「Edgar Allan Poe: A Study in Genius (1926)」などがある。 American author, editor, and teacher, b. Knoxville, Tenn., grad. Univ. of Tennessee, 1915, Ph.D. Columbia, 1923. He was on the editorial staff of the Nation (1924–52), and held a professorship at Columbia (1937–53).参照元:Free Encyclopedia Articles at Questia.com Online Library

*5:後日ではあるが三上先生のワタリガラスcommon ravenに出会っていた! - 記憶の彼方へによると北海道にやはり生息しているようだ。写真が載っている。

*6:イギリスに於いては、アーサー王が魔法をかけられてワタリガラス(大ガラス)に姿を変えられたと伝えられる。この事から、ワタリガラスを傷付ける事は、アーサー王(さらには英国王室)に対する反逆とも言われ、不吉な事を招くとされている。

*7:神武東征の折、創造神である高御産巣日神タカミムスビから神武天皇に遣わされ熊野から大和への道案内をしたとされるカラス

*8:カラス:Franz Kafka,フランツ・カフカ(1883年7月3日 - 1924年6月3日)のカフカつまりkavkaをチェコ語でカラスを指すということを『カフカ短編集』の翻訳者である池内紀がその「あとがき」で述べている。フランツの父であるヘルマン・カフカはユダヤ系の小間物商人であった。またその商店の商標にカラスを図案としたとあり、ヘルマン自身がカラスに対して恥じ入っていないという事を意味している。

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2007-03-05

namgen20070305

[]スタイルとはなにか 9の2 13:42 スタイルとはなにか 9の2 - 愚民の唄 を含むブックマーク はてなブックマーク - スタイルとはなにか 9の2 - 愚民の唄 スタイルとはなにか 9の2 - 愚民の唄 のブックマークコメント

エドガー・アラン・ポオと日本の文学者達

 私にとってのポオは『大鴉』や『海中の都市』を書いた詩人であり、『アッシャー家の崩壊』や『大渦にのまれて』を書いた小説家である。ポオの凡そ波及させた渦はアメリカ本国よりもヨーロッパ、そしてその影響下にあった日本の文学者達に様々な影響を与えたとみていいだろう。また、名前そのものをとった江戸川乱歩は『探偵作家としてのエドガー・ポー』のなかで探偵小説史をなぞらえながら謎とそれを解きうる推理という視点でチェスタートンやドイルなどと比較しながらポオの書いたトリック仕立てについても言及している。無論ここでは探偵小説やミステリィについて論じるものではなく、それはそれで有りであるとは思うのだけれども、どちらかと言えばポオ自身の表現者としての立ち位置から、おそらくゴシック・ロマンとか象徴主義的表現みたいな方向に論が進んでいくものと思われる。また、その昔ポオに接した時の私の意識の奧襞に茫洋として残っていたものに触れてゆくということにもなるかと思う。

 私がポオを読んだのは初めは中学生の高学年の頃だったと思っている。無論、学校の図書館にあった『モルグ街』とか『黄金虫』とかで一種の推理小説の分野にあるものだった。またこの類は意外と早く日本語に翻訳され、そう言う意味では小学校や中学校の図書館に於いて閲覧できうる態勢にあったと思われる。ちなみにポオの翻訳史的なものというか翻訳の年次を橋田久康の『ポオ文献』に拠ってみれば饗庭篁村訳の『西洋会談・黒猫』が明治20年11月、同年12月『ルーモルグの人殺し』ともっとも古い翻訳として挙げてあった。参考までの明治の文人達の訳はというと岩野泡鳴が明治42年「訳注近世英文学」で『大鴉』を、森鴎外が明治43年に「文芸倶楽部」において『うずしお』を訳している。大正になると生田春月、佐藤春夫、西条八十、辻潤などの名前が見え、昭和初期から戦前までに入ると正宗白鳥、江戸川乱歩、佐々木直次郎、日夏耿之介asin:4806030449*1、谷崎精二等の名前がある。戦後については中野好夫、福永武彦、吉田健一、阿部知二、丸谷才一となっていて既知の文学者及び英文学者の名前が連なっている。もっとも現代というものを想定すればもっと新しい訳や評論等が出ているのだろうと思える。以上のことを鑑みても日本におけるエドガー・アラン・ポオの位置というものはあるのだということが判るだろう。また余談ではあるが松村達雄による『ポー、フィルモグラフィー』にはポオを原作とした映画が数限りなく作られていたことも分かる。現にこのエントリの始めに書いたnoon75氏が訳した「The Raven」にも最新の映画が撮られていることが「Edgar Allan Poe’s THE RAVEN」において窺われるほどだ。映画というものに関して言えば、たぶん今後も作られてゆくのだろうと思える。

 私は先程少年期に於いて学校の図書館でポオに出会ったということを書いたが、そういう年代の頃の出会いというものは結構最後まで残るものだと思うところはある。今回のエントリを書くにあたって我々の先達者の書いたものも少々読み直すことになったが、とりわけ埴谷雄高*2がポオについて書いたものに惹かれるものがあった。少年期のもつ想像力に縁取られた感性にとってポオはどう見えていたのかと言うところに正しくポオがもちうる表現の世界があると言うことが分かる。埴谷はそれを「蝋燭の時期」と名づけている。

その頃、私は私の家のすぐ真裏にあたる一軒の小さな家にひとりで寝起きしていて、何時友達が訪れてきてもいいように、夜中、玄関の鍵をあけておくといった極めて自由な生活をしていたが、真夜中すぎに、どちらかといえば不良がかった友達がやってくると、何時も電燈をつけずに対座した私達のあいだに一本の蝋燭を立てて、その黄色い小さな焔の揺らめきにつれて互いの顔のなかの口元や眼のまわりにできるおおきな陰翳が日頃その相手に思いもかけぬような不思議な物質的凹所を示して無気味に揺れ動くさまを深く味わいあったものである。この下方の角度から蝋燭の光を照らしたときそこに隈取られる陰翳の異様な印象の奧に、敢えていってみれば、人間の暗部に蹲っている原始の邪悪や根だやしがたい暗い頑迷を覗いているような気持ちに私達はなったのであった。

 -「ポオについて」埴谷雄高(ポオ全集月報1963年)-

 今で云うならば真っ暗にした部屋で懐中電灯を下から照らす遊びにも似ている。少年期のこの体験をして埴谷の言うところの「闇への偏奇」だけで表すことの出来ない所以をポオの『ユリイカ』の中でみていて、一種の宇宙論である『ユリイカ』が彼をして「不可能性の文学」と名づけるにふさわしいとこの論の帰着するところで書いている。

 また芥川龍之介のポオに関する講演草稿、つまりメモ的なものなのであるがポオについて的確なところのことを書いていてこれも興味の惹かれるところである。『短編作家としてポオ』と題されたDaniel Defoe*3の作風とポオの作風を比較したこの講演メモは「事実らしく書いてあること」と言う項目を設けていることからポオのファンタジックな部分が内面的に掘り下げることによってリアリティをもっているのかを考証している。またポオが如何にボードレールに対して大きな影響を与えたのかも言及している貴重なメモでもある。

予ハPハ ardent aspiration と cold intellect との特殊なる mixture なりと云へり。彼が近代の大陸殊に仏蘭西に反響多かりしはこの点にありと信ず。近代の仏蘭西文学をつくれるものは二人の American なりと云ふ。且又 Poe の傑作は Baudelaire なりと云ふ。Baudelaire 全集の8中3は Poe の翻訳なり。Bを動かしたるものは何ぞや。予はこの理性と情熱との奇怪なる結合なりと思ふ。

 -「短編作家としてポオ」芥川龍之介(1921年講演草稿より抜粋)-

 日本人作家としてみるところのフランスの象徴派に与えたポオの大きさを強調していて興味深いものがある。

※追記

下はポオに関しての最近のオムニバス映画ていうか、ちゃんこ鍋映画の予告編である。深夜の場合は音を落として見られた方が良いだろう。なんかアメリカ人って言うのはこういうものが好きなようである。『Nightmares from the Mind of POE』となっている。

http://www.poenightmares.com/PoeNightmareslowtrailer.wmv

その3に続く

黒猫/モルグ街の殺人 (光文社古典新訳文庫)

黒猫/モルグ街の殺人 (光文社古典新訳文庫)

埴谷雄高文学論集 埴谷雄高評論選書3 (講談社文芸文庫)

埴谷雄高文学論集 埴谷雄高評論選書3 (講談社文芸文庫)

*1:エドガー・アラン・ポオの幻想的な名篇The Ravenをギュスターヴ・ドレの挿画26葉を加えた幻想的な一冊にした。日夏耿之介の名訳といわれている。

*2:埴谷 雄高はにや ゆたか、男性、1909年12月19日 - 1997年2月19日は、小説家、評論家。本名は、般若 豊はんにゃ ゆたか。日本が生んだ観念小説「死霊」の作者。平野謙、本多秋五らと「近代文学」を創刊した。ウイキペディアはここ

*3:ダニエル・デフォーDaniel Defoe1660年 – 1731年4月21日:ロビンソン・クルーソーを書いている。ウイキペディアについてはここここ

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2007-03-04

namgen20070304

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はじめに

 ダイアリの「南無の日記」でid:noon75氏とのやりとり『エドガー・アラン・ポオ-「The Raven」に寄せて』の中からエドガー・アラン・ポオ-Edgar Allan Poeの一篇の詩「The Raven」について話題になったことを先日書いたのであるが、やがて律儀な彼から二十三歳の時に試訳したポオの詩篇「The Raven」が送られてきた。嬉しいと共に、私はその時、私なりの責任も果たすべきだと思った。そして、これから書くエントリは「南無の日記」のほうで書くべきかとも悩んだのだが、それなりの区別性をもって書いているこのコンポラGの「愚民の唄」でこそが相応しいのではないかと思った次第である。また、そうなると、通り一遍に書き散らすことなど到底できなくなるわけで、数日の間、悩むことにもなった。一番痛かったのはポオそのものの本やサンボリスムに関する書籍類*1ほとんどが別れた妻の家に置いてあることであり、今さら、それらを取りに行くことなど出来ないという状況が控えていたからなおのこと始末に悪かった。従って書こうと思っている部分のどの程度まで書き進めれるのかと言うことになるが、なるようにしかならぬだろうというのが愚民である私の見解である。

エドガー・アラン・ポオ-Edgar Allan Poe(1809年1月19日 - 1849年10月7日)の出自について

 では、あらためてエドガー・アラン・ポオ-Edgar Allan Poeの人となりについて書いておきたい。1809年1月19日旅役者の子としてマサチューセッツ州ボストンの町に生まれた、と阿部保はポー詩集のはしがきで簡単に書いているが「女優エリザ・ポーと俳優デービッド・ポーの息子として生まれた」とするウイキペディアの方が少しましである。ポオについては1930年(昭和5年)に日夏耿之介の「ポオ伝覚書」においてポオその人の出自について触れているがよく読むとこれもどうやらボードレール*2の「エドガー・ポー、その生涯と作品」から引用しているのではないかという節が見える。いずれにしても、であれば、いっそのことボードレールの書いたポーの出自の部分*3を読めば済むと言うことになるのではないかと思う。

 ポオの一家はバルチモアの名門の一つであった。その母方の祖父*4は独立戦争の際に主計総監をつとめたことがありラファイエット*5に高く評価され、またその友詛を得ていた。ラファイエットは合衆国への最後の旅のさいに、将軍の未亡人に逢って故人が彼のためにつくしてくれた数々の奉仕に対する感謝の気持ちを証したいとのぞんだ。曾祖父は英海軍の将官マック・プライドの娘と結婚した*6のであるが、これは英国の一流の名門と姻戚関係にあった。エドガーの父親であり将軍の息子であるデーヴィッド・ポオは有名な美貌の持主であった英国の一女優エリザベス・アーノルドに夢中になった。そして彼女とともに駈落ちをし結婚した。妻と自分との運命をいっそうふかくからまり合わせるために、彼はみずからも俳優となり、合衆国の主だった都市で、妻とともにさまざまな芝居小屋の舞台に上がった。

 -「エドガー・ポー、その生涯と作品」シャルル・ピエール・ボードレール(平井啓之訳)-

 (Poe, Edgar Allan - Sa vie et ses oeuvres)

 このような出自だけ立派な両親、つまり駈落ちした両親の間の二番目の子としてポオは1809年1月19日ボストンに生まれた。そして1811年ポオが三歳の時にその母親は旅先であるリッチモンドで亡くなり、不幸なことに父はその先立つこと二週間前に死んでしまっていたのである。妹ロザリー(1810?-1874)は当地の婦人へ、兄ウイリアム(1807-1831)はボルチモア在住の祖父に引き取られた。ポー自身は当地の煙草輸出商のジョン・アランの養子となり、エドガー・アラン・ポオと名付けられたが正式には入籍されていなかったと言われている。1815年(六歳)7月にアラン夫妻と渡英しロンドン近郊のストーク・ニューイングトンにある私立のマナー・ハウス・スクールに在学し五年間滞在する。1820年(11歳)8月にアラン夫妻とともに帰米し学校に通いながら、詩作を始める。1826年(17歳)二月、シャーロッツヴィルにあるヴァージニア大学に入学、秀才で濫読型。博打に手を染め多額の借金を作り養父に連れ戻される。1827年(18歳)偽名で合衆国陸軍に志願入隊。

 このあたりまでが感性的なものが育っていったポオの幼少期から青年期までと見ればいいだろう。つまりある意味では肉親の手で育てられなかった不幸を背負ったと見ていいのだろうと思う。

※日本に於いてのポオの出版については「Edgar Allan Poe Collection」に詳細が載っているので参照されればいいと思う。

その2に続く

The Raven (Dover Fine Art, History of Art)

The Raven (Dover Fine Art, History of Art)

*1:ポオの作品は勿論のこと、たぶん参考にしなければならないような、ボードレールを初めとするフランス、イギリス、ドイツ、オーストリア等の象徴主義派の文学者や画家達に関するものなどのこと。サンボリスムについてのウィキペディア(Wikipedia)はここをクリック。

*2:シャルル・ピエール・ボードレールCharles Pierre Baudelaire:1821年4月9日 - 1867年8月31日はフランスの批評家、詩人。詩篇としては『悪の華』(Les fleurs du mal)、『パリの憂鬱』(Petits poèmes en prose, Spleen de Paris)などがあり、そのほか美術、音楽、文学批評に優れたものを残している。

*3:ところがこのポオーの出自については当時色々な問題が多く、ボードレールがテクストとして参考にしたルーファス・グリズウオールドなる編集者の手になる1850年出版の『故エドガー・アラン・ポオ全集』の中に於いてもポオーの出生やその後についての誤謬が多いと言われている。また、ポオーとグリズウオールドとの関係についても、Graham's Magazine編集者の前任者、後任者という関係だけではなく不明な点も多い。またポー自身が都合上グリズウオールドに経歴年を偽らざるを得ないこともあった。

*4:明らかに父方の祖父の誤り

*5:ラファイエットについてはウイキペディアを参照のこと。

*6:これはジョン・ポオのことであるが、彼の妻となったのはジェームス・マック・プライドの娘ではなく、姉妹であると今日判明している。

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