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敵も愚民である

-愚民唯我独尊ごろくより-
 

2007-03-04

namgen20070304

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はじめに

 ダイアリの「南無の日記」でid:noon75氏とのやりとり『エドガー・アラン・ポオ-「The Raven」に寄せて』の中からエドガー・アラン・ポオ-Edgar Allan Poeの一篇の詩「The Raven」について話題になったことを先日書いたのであるが、やがて律儀な彼から二十三歳の時に試訳したポオの詩篇「The Raven」が送られてきた。嬉しいと共に、私はその時、私なりの責任も果たすべきだと思った。そして、これから書くエントリは「南無の日記」のほうで書くべきかとも悩んだのだが、それなりの区別性をもって書いているこのコンポラGの「愚民の唄」でこそが相応しいのではないかと思った次第である。また、そうなると、通り一遍に書き散らすことなど到底できなくなるわけで、数日の間、悩むことにもなった。一番痛かったのはポオそのものの本やサンボリスムに関する書籍類*1ほとんどが別れた妻の家に置いてあることであり、今さら、それらを取りに行くことなど出来ないという状況が控えていたからなおのこと始末に悪かった。従って書こうと思っている部分のどの程度まで書き進めれるのかと言うことになるが、なるようにしかならぬだろうというのが愚民である私の見解である。

エドガー・アラン・ポオ-Edgar Allan Poe(1809年1月19日 - 1849年10月7日)の出自について

 では、あらためてエドガー・アラン・ポオ-Edgar Allan Poeの人となりについて書いておきたい。1809年1月19日旅役者の子としてマサチューセッツ州ボストンの町に生まれた、と阿部保はポー詩集のはしがきで簡単に書いているが「女優エリザ・ポーと俳優デービッド・ポーの息子として生まれた」とするウイキペディアの方が少しましである。ポオについては1930年(昭和5年)に日夏耿之介の「ポオ伝覚書」においてポオその人の出自について触れているがよく読むとこれもどうやらボードレール*2の「エドガー・ポー、その生涯と作品」から引用しているのではないかという節が見える。いずれにしても、であれば、いっそのことボードレールの書いたポーの出自の部分*3を読めば済むと言うことになるのではないかと思う。

 ポオの一家はバルチモアの名門の一つであった。その母方の祖父*4は独立戦争の際に主計総監をつとめたことがありラファイエット*5に高く評価され、またその友詛を得ていた。ラファイエットは合衆国への最後の旅のさいに、将軍の未亡人に逢って故人が彼のためにつくしてくれた数々の奉仕に対する感謝の気持ちを証したいとのぞんだ。曾祖父は英海軍の将官マック・プライドの娘と結婚した*6のであるが、これは英国の一流の名門と姻戚関係にあった。エドガーの父親であり将軍の息子であるデーヴィッド・ポオは有名な美貌の持主であった英国の一女優エリザベス・アーノルドに夢中になった。そして彼女とともに駈落ちをし結婚した。妻と自分との運命をいっそうふかくからまり合わせるために、彼はみずからも俳優となり、合衆国の主だった都市で、妻とともにさまざまな芝居小屋の舞台に上がった。

 -「エドガー・ポー、その生涯と作品」シャルル・ピエール・ボードレール(平井啓之訳)-

 (Poe, Edgar Allan - Sa vie et ses oeuvres)

 このような出自だけ立派な両親、つまり駈落ちした両親の間の二番目の子としてポオは1809年1月19日ボストンに生まれた。そして1811年ポオが三歳の時にその母親は旅先であるリッチモンドで亡くなり、不幸なことに父はその先立つこと二週間前に死んでしまっていたのである。妹ロザリー(1810?-1874)は当地の婦人へ、兄ウイリアム(1807-1831)はボルチモア在住の祖父に引き取られた。ポー自身は当地の煙草輸出商のジョン・アランの養子となり、エドガー・アラン・ポオと名付けられたが正式には入籍されていなかったと言われている。1815年(六歳)7月にアラン夫妻と渡英しロンドン近郊のストーク・ニューイングトンにある私立のマナー・ハウス・スクールに在学し五年間滞在する。1820年(11歳)8月にアラン夫妻とともに帰米し学校に通いながら、詩作を始める。1826年(17歳)二月、シャーロッツヴィルにあるヴァージニア大学に入学、秀才で濫読型。博打に手を染め多額の借金を作り養父に連れ戻される。1827年(18歳)偽名で合衆国陸軍に志願入隊。

 このあたりまでが感性的なものが育っていったポオの幼少期から青年期までと見ればいいだろう。つまりある意味では肉親の手で育てられなかった不幸を背負ったと見ていいのだろうと思う。

※日本に於いてのポオの出版については「Edgar Allan Poe Collection」に詳細が載っているので参照されればいいと思う。

その2に続く

The Raven (Dover Fine Art, History of Art)

The Raven (Dover Fine Art, History of Art)

*1:ポオの作品は勿論のこと、たぶん参考にしなければならないような、ボードレールを初めとするフランス、イギリス、ドイツ、オーストリア等の象徴主義派の文学者や画家達に関するものなどのこと。サンボリスムについてのウィキペディア(Wikipedia)はここをクリック。

*2:シャルル・ピエール・ボードレールCharles Pierre Baudelaire:1821年4月9日 - 1867年8月31日はフランスの批評家、詩人。詩篇としては『悪の華』(Les fleurs du mal)、『パリの憂鬱』(Petits poèmes en prose, Spleen de Paris)などがあり、そのほか美術、音楽、文学批評に優れたものを残している。

*3:ところがこのポオーの出自については当時色々な問題が多く、ボードレールがテクストとして参考にしたルーファス・グリズウオールドなる編集者の手になる1850年出版の『故エドガー・アラン・ポオ全集』の中に於いてもポオーの出生やその後についての誤謬が多いと言われている。また、ポオーとグリズウオールドとの関係についても、Graham's Magazine編集者の前任者、後任者という関係だけではなく不明な点も多い。またポー自身が都合上グリズウオールドに経歴年を偽らざるを得ないこともあった。

*4:明らかに父方の祖父の誤り

*5:ラファイエットについてはウイキペディアを参照のこと。

*6:これはジョン・ポオのことであるが、彼の妻となったのはジェームス・マック・プライドの娘ではなく、姉妹であると今日判明している。

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