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敵も愚民である

-愚民唯我独尊ごろくより-
 

2007-05-22

namgen20070522

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The Raven『大鴉』の愛と絶望の悲劇

 文語的に装った『大鴉』も「悲劇」にはヒロインが必要であるという構成立てになっていて、ポオの得意とする「美女の死物語」の雰囲気を漂わせているといえよう。たとえ恋人が死者になっていても追慕の念の消えない男の被虐的心理を詩として詠おうとしているのである。愛と死という当時の大衆文化*1でもてはやされそうなテーマであるともいえる。またそのことは表現に劇的な意味をもたせるためには既成言語帯に依存するしかなく、また旧時代からの韻律にこだわることによって従来の古典的表現法を踏襲するしかなかったともいえる。またそうでなければ先立つイギリス「文芸」*2に慣れさせられていた一般大衆が読むと言うこともなかったのではないかと思われる。

 アメリカの19世紀の時代は当然といえ18世紀を引きずっていたのであり、独立戦争イギリス文化の影響からようやく脱却しようとしている時代でもあった。そしてアメリカ産業資本主義の急激な発展*3は機械システムの導入をあらゆる業の中に組み入れ、それと共に物流システムも発展してゆくことになった。出版業もこの例外になることは出来ずに「読み物雑誌」を量産化し国内全域に販路を見いだしてゆくという時代も迎えていた。急激な雑誌文化の伸長*4は読者層を増やすと言うことがあっても知的層を増やすこととイコールとはならないことも現実として残った。新たに出現してきた大衆と呼ばれる人達の意識の位相は無学に近いままであったのである。雑誌出版社の編集者という立場にいたポオもまさにそういう時代の真っ只中にいて大衆文化と純粋芸術のはざまにいたということである。

 『ポオの年譜や書簡』を思い起こして欲しいのだが『大鴉』がニューヨークイブニング・ミラー誌によって世に出たのは1845年のことであり『構成の原理“The Philosophy of Composition”』が書かれた1846年にニューヨークへ引っ越ししている。14才の従妹Virginia Clemmと結婚したのは1836年であり1847年にはヴァージニアが亡くなっている。「死美人」のイメージが彼の作品の中になぜ執拗に描かれたのかを最小限書いておきたいと思う。そしてそれが『大鴉』の位置関係とポオの書いた言葉の持ちうる解読にも繋がるものだとも思っている。

 ヴァージニアと結婚して数年の間その母を含めた三人の生活は貧乏であったが愛に満ちた生活であったと想像するに難くない。だが1842年に愛妻ヴァージニアが喀血し5年後には死が待っていたと云う状況にあった。その通り『構成の原理』を書いた翌年にヴァージニアは帰らぬ人となりその二年後1849年ポー自身も絶望の果てに死んでいる。死という影がその生活過程に於いても具体的なものを伴ってポーの脳裏から離れなかったと言うことである。詩篇『大鴉』は大衆文化の狭間に於いてのいわば二律背反とも言うべきポオの芸術主義と生活過程においてのふたつの挫折というポオが持ちえていただろう予感、そういった背景すべてを象徴しているのである。『大鴉』の中で鴉自身が登場してきてからの学者*5との問答を読めばそれがすべて象徴的に暗示されているという解読が出来るのである。そう、その通り、学者の期待感を秘めたどのような問いにも鴉は「絶望」という答えを投げ返してくるではないか。いかにも、「愛と死」という大衆受けするテーマの他にポオはあらゆる事象に対しての「絶望」という言葉を無意識に於いてそこに挿入したのである。そしてその絶望は『大鴉』を書いた四年後1849年に道端で倒れた彼の死*6をもって具現化して39年にわたる人生の幕を閉じる。

終わりに

 さてどうやら私の中ではこの論も終わりを告げた。詩篇『大鴉』を通して独立戦争後に急激に発展し始めたアメリカ社会における文学というものの一端でもこの小論によって窺うことが出来れば、これに叶うことはないと思っている。また、ポオ以外の同時代であるナサニエル・ホーソンやヘンリー・ワーズワースロングフェローをはじめとする作家や詩人にも触れたかったがそれは私の任でもなく学者や評論家先生たちがすでに解き明かしている分野でもある。また『大鴉』のみならずエドガー・アラン・ポオその人についても山ほどの書物や資料も出ている。そういった意味でも私の論は先人達の駆け入った道標があり、それを参照させて貰ったと言うことは幸運でもあった。先人達の遺産に感謝したいと思う。

 また、ポーの様々な軌跡を資料を辿っていた中で文学と社会という一種の二律背反したものをあらためて実感させて貰ったことは大きな収穫であった。言ってみれば過去に於いて教条主義的にまで語られたものにいったん距離を置いて文学というものを見つ直すことが出来たということである。またそれは資本主義が高度に発展してゆこうとする社会の中で文学の価値というものの「値うち」を知ったと言うことでもあるかと思う。そのアメリカ産業資本主義の中で弄ばれてゆくポオの姿は今日の私達にとっても人ごとで片づけられないものをわれわれに教えているのではないかということでもあり売れるものが必ずしも値うちがあるということでないことを現代人であるわれわれが知ることが出来たということでもあった。いわば即物的に値うちがつけられる物の中に芸術はあるものではないという姿をポオの持っていた理想の中に見たような気がするからであった。また大衆の姿というものにポオがいつも悩まされていたと言うことも膨大な資料の中で知ることが出来たということもついでに書きとめておきたい。いわゆる愚民化が高度に発展した社会が現代であることも踏まえポオが死して一世紀半後も同じ問いに我々が立たされているのだと言うことでもあった。

 この小論を書きながら振り返ってみると、もっと細かく言及したいところが次々と出てくるのには相当悩まされていたのであるが、際限の無いようでもあり一つの段落としてこれをもって一端は終えることにする。最初の書き始めと終わり方には相当の開きがあるように思えることは他人の指摘を待つまでもなく充分に自覚していることであり中途半端で終わった観も否定しないが、これも筆力のおよばないことであるとご容赦願いたいところである。多分この小論はいつかあらためて追加や削除が行われ再編集されるものだと思っている。

 また才人であったポオを考えるにあたり次の吉本隆明の言葉を思い出していた。

 かれは、ある真が表現されるためには、仮構を媒介にする方法しかないと考えているか、あるいはすべての真は直接性によってなりたつとかんがえているか、どちらかである。あるいは、かれはじぶんを直接愛憎しているか、できるだけじぶんから遠ざかった姿での、じぶんを愛憎しているかのどちらかである。また、かれはじぶんがある直接のふんいきとして存在していると信じているか、他からみられたときだけじぶんが、真のじぶんとして存在するとかんがえているか、どちらかである。資質としてかんがえれば、詩的な資質も散文的な資質も存在している。

  -「言語にとって美とはなにか 第Ⅱ巻 Ⅴ章 構成論」(吉本隆明)-

 これからするといったいポオという才人は詩人であるのか小説家であるのかということになるが、今の私には両方であるとしてしか答えることが出来ない。

 終わりにあたってこの論を書くきっかけを作り、尚かつ若さで溢れた「The Raven」の試訳を提供してくれたnoon75氏に感謝したい。彼から受けた様々な叱咤激励を決して忘れるものではないというと共にまた彼自身の翻訳のプロという一面を覗かせてくれたことも嬉しかったと言えるだろう。最後にあたって近い内に彼が目指すところの文学賞が必ずや獲れることを私は誰よりも願っていることも書きとめておこう。

  -この稿終了-

*1:ポオは雑誌編集者としても優れた才能を発揮していて大衆が好む物を知っていた。当時のアメリカにおける産業資本主義の発展は今までの農本主義的な中で生きてきた大衆像を変えてしまった社会を迎えていたのである。つまり大衆文化が芽生え初め新たな読者層が出現してきたのである。しかし所詮は大衆文化でしか無く奇をてらった物が人気を集めていた。

*2独立戦争後、著作権フリー状態であったアメリカ出版文化は一斉にイギリス文芸、総じて詩や小説など一切の文化の無秩序かつ大量生産的出版に走った。それは逆に生粋のアメリカの詩人小説家に出版の機会も奪ったという情況も示している。

*3:アメリカは農業社会から工場生産を主体とする産業資本主義社会に変貌を遂げつつあった。そして機械技術の発展は人間をその労働の軽減化を図るものとされ、拠って人間の平等をもたらすとする信条とデモクラシーが結びついた時代でもあり機械文明礼讃が始まったと言える。そして1848年のカリフォルニアでの金の発見がその拍車をかけることにもなった。-参照:「ポーと雑誌文学」(野口啓子)彩流社版-

*41830年代から1840年代は「雑誌の黄金時代」と呼ばれ50年には四、五千種にものぼったといわれている。

*5:いかにもポオ自身の分身である

*6ヴァージニアを失ってからのポオは完全に生きる気力を無くしていてアルコール漬け同様であったといわれている。またそれが彼の奇言癖を増長しほとんどの友人といわれる者や庇護者と呼べる者達も遠ざかり、孤独の内に死んだ。

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