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2006-12-18くじら、ねこ このエントリーを含むブックマーク

都は、甘ったるいような、少し酸っぱいような空気が、この870年

の積み重ねで、ついには空の色まで変えるようになっていた。その都の

真ん中に、232年もの歴史を持つカフェがあったとさ。

わたくしは、17代目の店主であります。

夕方6時から8時頃は、たいていお暇な時間帯でありますので、常連

の方が、ちらほらいらしては、たいへんおかしな、それでいて何もなら

ないようなお話を、10席ほどのカウンターにどっかりと、まるでじぶ

んのお家の如くお座りになって、うれしそうに語り出すのであります。

くじらさん、は6時になるといらっしゃいます。カウンターの一番奥、

身体に似合わずひっそりとお座りになり、キンキンに冷えたビールを、

とりあえず8.3リットル一息に飲み干されます。その、痛いくらい

の冷たさと、爽快感、一杯目のクラクラ感が体中にゆきわたりますの

に、きっかり13分、かかりますので私は、特注したぴたり13分の砂

時計をひっくり返して、くじらさんに話しかけるタイミングを見計らう

のが、常になっています。

ひとくちに13分と言っても難しゅうございまして10分経過、の一番

いいとき、に話しかけてもお邪魔のようで悪いですし、うっかり話しか

けるのを忘れてしまいますと、気弱にいじけて雑誌など読み始めてし

まっては、気まずくなってしまうのであります。

わたくしとしましても、くじらさんは大切なお客様常連さんでありま

すので、そんな彼のわかりやすい繊細さを愛しくも思われまして、私が

言うのもおこがましいのでありますが、大事に、させていただいている

のです。

今日は、なんだか、妙にグリーンだねえ」

と、くじらさんはお空の話からお始めになります。

「左様、今日は一段とグリーンであらせられますね」

私は、空の話をするのが何よりも楽しく、常連お客様は勿論、一見さ

んであっても、誰彼となく話し掛けてしまい変な顔をされてしまうこと

も、しばしばであります。ともかく、都のお空は格別なのです、様々な

表情を、とりどりの色彩を持っていらっしゃるのです。そして、そ

の色を感じるココロ、言い表すひとたちの感性はこの都にあっても、研

ぎ澄まされているのです。ここ2,3日は大まかに言えば、グリーン

あらせられましたし、2週前は、玉虫色サイケデリック恍惚、でありま

した。

「この緑は、どうも憂鬱になる。苦手な色なんだな。ここんとこの濃やか

さには閉口だ。どうにもやりきれねえ」

くじらさん、やっぱり青ですか、オーシャンブルー

「うん、あお、ね。海の藍、・・・・、その辺の微妙な色合い、ニュアン

ス、空の蒼さではない、深さ、様々なものを呑み込んだ、深淵、生のみな

もと、色というより、根源的な感覚・・・」

くじらさんに海の話をさせると、2時間18分は息継ぎなしで楽にお続

けになり、さらには、感極まって泣き出すと、お店はたちまち浸水の憂

き目に遭うので、すかさず話頭を変えるようにしております。

「ああ、ひつじ君、ね、そろそろお願いしますよ」

当店の専属ピアニスト、ひつじ君に話しかけます。

「夜は、どうしませうか、マイボス

急に振られたひつじ君は、慌てて煙草を消して、こちらの方に改まって

向き直ります。昼間はバッハの「インヴェンションとシンフォニア」や、

「ゴルトベルグ ヴァリエーションズ」を演っていただいてましたから、

夜はお気楽にボサノヴァでも・・・、と思っておりました

が、話の流れから、思わず出たのが、

「・・・とりあえず、BLUE IN GREENを・・・」

「ああ、マイルス」とくじらさん。

「いや、あれは、エヴァンズでせう」

ひつじ君は、微笑って言うと、ピアノに向って、鍵盤を掴んで、祈るよ

うに大真面目に弾きはじめました。

お店の雰囲気が、すっと、沈んで落ちつくのがわかるようです。

私は、ゆっくりライトダウンをいたします。

すると、ねこさんがお見えになりました。

ねこさんは、ぐったりとして、着席されます。そうとう、お疲れのよう

です。静かに流れる「BLUE IN GREEN」に、聴き入ります。

ねこさんは、最近、眠れない、ねむれない、眠れない、ねむれない、眠

られぬ、と、どんな言葉よりも多くこの言葉を仰います。ただ、眠れな

い、だけではないということが、私には痛いほどわかるつもりなので、

掛ける言葉もなく、急いで、ウエッジウッドのキャベンディッシュに6

2℃のミルクを注ぎ、生クリーム30cc、ダッチコーヒーを数滴落

し、静かにねこさんの前に差し出します。ねこさんは、ありがとう、言

うようにうなずかれ、ひとくち、ためいき、ほおづえ。

くじらくんが、昨日言ったようにね、眠れない眠れない眠れないと言

ってはいるが、眠らずに生きている訳はなく、きっと無意識に眠ってい

るはずだ、というお説なんだがね、思い当たる節がないことはない、と

いうか、おおありだ。眠れない眠れない眠れない眠れないと、矢鱈に言

うのも、やめにした。何度も繰り返して言っているうちに、その言葉

意味も失せて、なにかの呪文のように響いて、また眠れなくなる」

ねこちゃん…、大丈夫かい?最近ねこちゃんとは、会ってなかったじ

ゃないか。だいぶ混乱しているようだね。夢と現実が錯綜しているみた

い」

「???、ええっ、そうだったかい?いや、あの、え、うむむ」

と、ねこさんは動揺やら恥ずかしさやら不安で、ごった返している様子

なので、

くじらさん、そのように仰ったら、胡蝶の夢、すべては夢の中の出来

事と言えますし、私のこの言葉さえも、ゆめ、まぼろし、でたらめ、こ

しらえもの、妄想、気晴らし、お遊びかも知れませぬぞ」

「まあ、それを言っちゃあ、元も子もないがね・・・」

くじらさんは、笑って、2杯目のエビスの黒10パイントに喉をならし

ます。

「うむむ、ああ、もうわからない、なんでもいい、なにもかも嘘じゃな

いか、みんな出鱈目じゃないか、信じられるものなんて、ないじゃない

か、みんな嘘吐きじゃないか、中途半端馬鹿ばっかりじゃないの、

自分には関係ないからいいや、って、そんなこと言ってしまうのは、お

かしいじゃないかああぁぁっ」

ねこさんは、異様に興奮して、毛をお逆立たせになって、フーフー仰

っているので、わたくしは、慌てて、

ねこさん、ねこさん、ねーこさん!ねこさん?まあまあまあまあ、落

ちついてください、落ちついて、落ちついてください、ねえ、落ち、着

いて下さい、落ち着いて、下さい、落ちつ、いて下さい!!落ち着いて

下さい落ち着いて下さいさい、ね」

と。呪文のように繰り返していると、なんだか、自分自身、妙に落ち着

いてきてしまって、えっと、なんだ、わたくし、何をしていたんでござ

いましょうや、などと、頭を掻いておりまして、ねこさんを見遣れば、

落ち着くというよりも、むしろ、しっかり落ち込んでしまっていて、な

ぜか恍惚の表情で、飲みかけミルクに張った膜を見つめていらっしゃ

いました。

「やあ、陰気臭いなあ、ここに来たときくらい、明るい気持ちでいたい

ものだよねえ、ひつじくん」

と、くじらさんが、困ったような声で言うなり、待っていたかのよう

に、弾けるように躍動するイントロから、陽気でお道化アレンジで、

TAKE THE A TRAIN」

を弾き始めたひつじくんに、改めて、わたくしは、音楽というものの、

その場の空気を変える驚きの力に唖然、とさせられるのでございました。

「こうでなくちゃあ、いけない、いいねえ、ひつじくんは、いいなあ、

くだらない、まるで命のこもってない言葉、安っぽい言葉、なんかよ

り、ずっと、偉いものだ」

くじらさんも、感服のようです。うんうん、私も首肯いたしました。

そして、このお店を先代から受け継いで19年と8ヶ月半、毎日は、日

常は、たんたんと、ねんねんと続いてゆく、この都の歴史と併走してす

ぎてゆきますが、このような、くじらさんの言葉を拝聴すると、この

仕事に従事している悦びを、今更、今でも、感じるのでございます。


tatsu_del_cielotatsu_del_cielo2006/12/18 14:41来たぁ!
「くじら、ねこ」だぁ!
たけさん、ありがと〜

takecafetakecafe2006/12/18 14:44辰さんのバッカス読み直したら、自分のも・・・、と思って。w

tatsu_del_cielotatsu_del_cielo2006/12/18 16:48わは。
これは嬉しいなぁ。楽しいっす!

agricoagrico2006/12/18 18:09久しぶりに読んでも楽しいです。
マスターの正体がわからないところが意味深で面白いですね。

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